岡本裕明氏の6/23付けアゴラ記事「コミュニケーション欠如:『リアルのやり取りをする』が不得手な人たち」へのコメントです。
コミュニケーション塾の講師まで務める方には釈迦に説法のような気がしますが、コミュニケーションが成り立つ前提は、文化的背景を共にすることであり、この前提が怪しい、ということでしょう。もちろん、自然科学や取引の場では、ここに参加する以上必然的にそれぞれの場特有の文化的素養が要求されるのですが、今日日本の一般社会では、必ずしもこの前提が成り立っていない、ということでしょう。
文化的背景が違う人々の間でコミュニケーションを成り立たせるための一つのポイントは、「寛容原則」で、はてなの「寛容の原理」によれば、それは以下のものです。
分析哲学者ドナルド・デイヴィドソンの打ち出した考え。
未知の言語を話す相手の発言を理解するためには、その発言を真と考えなければならない、とする。
また、相手とこちらの信念がおおよそ共通している考えなければならない、とする。「寛容は強いられている」
転じて、議論しあう相手の発言をできるだけ、合理的なものとして解釈する必要があると言う原理。
トラック運転手の問題では、「ふざけるな」とか「お前のせいだ」という言葉が寛容原則に反するわけで、これらの言葉を出す前に、相手が何を考えて言葉を口にしているかを、相手の立場に立って理解しなくてはいけないのですね。
ところが、これだけで話が済むならそれは軽微な問題なのですが、今日、文化が細分化しているという問題がある。世界を一つに結ぶ情報ネットワークができたというのに、その上で人々は無数の文化圏を形成してコミュニケーションしている。このような文化圏をまたぐ「異文化コミュニケーション」では「普遍的コミュニケーション」が求められます。これは、学術や法にみられるコミュニケーションのあり方で、定義された用語を用い、論理的齟齬のない議論を心がけなくてはいけないのですね。
まあ、もう一つの行き方もないではない。日本の無秩序ぶりは世界的にも際立っている。クリスマスを祝った次の週には初詣に行き、先祖の位牌に手を合わせたりもする。そういうあり方は新しいものを生み出すエネルギーにもなる。かつては不良の遊びと思われていたスケボーやブレークダンスの国際大会で日本人が活躍する。そういう目で見れば、都知事選のポスターや下着ユニバもおおめにみるという考えもアリかもしれないのですね。
異世界転生の時代