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高橋洋一対ひろゆき論争の行方

「円安上等、1ドル300円も」と主張す経済学者高橋洋一氏に西村ひろゆき氏が庶民の生活苦をあげて「ホントに学者?」と反論し、あちこちで議論を巻き起こしております。本ブログでは、円安擁護の立場でいろいろ書いてまいりましたが、ここでこの論争についてもまとめておきましょう。


まずは単純な話から

ひろゆき高橋論争を一言で纏めてしまうと、一国の経済に着目する高橋洋一氏と、国民の生活に着目する西村ひろゆき氏が対立しており、こういう立場の相違がある以上、この対立は必然的であり、どちらが間違っているわけでもない、というしかありません。

自国通貨が安くなれば、輸出はし易くなる一方で、輸入品の価格が上昇し、貿易収支を黒字の方向に動かします。一国単位で見れば、収入が増えて支出が減るわけですから、国の経済は上昇する。これが単純化した高橋氏の主張で、どこにもおかしなことはないのですね。

一方、自国通貨が安くなって値上がりするのは、ぜいたく品だけではありません。我が国はエネルギー資源を輸入しており、電気代ガス代も上昇する。肥料などの農業資材も値上がりして食料品も値上がりする。エネルギーを使っている交通機関やその他の産業も値上がりして、物価全体が上がってしまう。その一方で、輸出比率の多い企業は利益が増えますので給与も上がるのですが、全てがそうであるわけもなく、国民全体の生活が苦しくなる。これがひろゆき氏の主張で、これも正しい主張なのですね。

円高円安それぞれに潜む問題

そうすると、結局この問題は、国民生活を重視するか、一国経済を重視するかという話になる。そして、国全体を重視する政府与党が一国経済を無視しえないのに対して、国益よりも市民生活を重視する野党や、野党の主張に近い新聞は国民生活を重視するわけで、ここは、高橋氏には少々分が悪い展開となりそうです。

しかし、一国経済が傾けばいずれは国民生活も苦しくなることは、これまで世界各国で起こった経済危機で経験済みで、いつまでも無理な円高を続けるわけにはいきません。

一方、国民の生活が成り立たないと、内需不足で不景気になる。これを外需で補おうとすると、1980年前後に火を噴いた貿易摩擦を招き、懲罰的な関税を食らったり、各国が連携して円高に向かわせる圧力がかかる。1985年のプラザ合意は、まさにそれであり、その後長期間にわたって円高が続いた。人為的な円安が長続きできないことは、高橋氏が何度も語っている「近隣窮乏化政策」が近隣諸国に受け入れがたい政策であることからも自明のことだと思います。

あるべき姿は

結局のところ、どちらの極端もそれぞれに成り立たない。ならば、どのあたりが妥当か、という議論になります。これを一言で言えば、あるべき為替水準は、それぞれの国の実力で自然に決まるもので、無理に上げ下げしようとしてはいけない、ということになります。

我が国の産業が強ければ、自然に円高の方向に向かうし、日本の産業が諸外国に対して後れを取ってしまったら、貿易収支が赤字になり、自然に円安の方向に向かう。経済が強ければ国民生活も豊かになり、経済が悪化したら国民も貧しくなる。これが自然な姿なのですね。

これに対して、無理に自国の産業を強化せんと円安を演出すると、通貨操作国とみなされて懲罰的関税を掛けられたりします。逆にポピュリスト政権が国民受けを狙って無理な円高に導くと、国内の産業を弱体化させ、いずれは貨幣価値の維持を困難として極端なインフレを招く。いわゆる通貨危機が発生するわけです。

現状はどこにあるか

為替水準は、経済的な実力に応じた位置に収まるべきということは当然のことだとして、次の問題は、どこがあるべき位置であるかということになります。これにはいくつかのヒントがあり、一つは、他国と比較して日本の経済状態がどうなっているか、という点。もう一つは、あるべき為替水準に関して、各国はどう考えていたか、という点が参考になるでしょう。

まず、日本の経済状況ですが、これは悲惨なもので、1995年以降、我が国のGDPは、ほとんど伸びていない。また、国民所得もほとんどフラットです。まあ、GDPが伸びていないのだからこれは致し方ない。ない袖は振れないのですね。

この原因は、一つには度重なる円高で我が国の輸出産業を支えていた工場が海外に移転してしまった、という点があげられます。これは、電機電子産業や自動車産業で多く見られた現象で「空洞化」として知られております。その他、工場の移設が困難な造船所や化学プラント、あるいは資金力の乏しい中小企業などは、単純に規模を縮小したり、倒産したりしたのですね。

もう一つの問題は、1990年代の情報革命を、我が国は十分にものにできなかったという点があげられます。これは、GAFAに代表される情報通信産業がけん引して急速な経済成長を実現している米国に対して、特に我が国の停滞ぶりが目立つところです。

あるべき為替水準につきましては、1985年のプラザ合意の時点で、1ドル165円程度が妥当ではないか、という説を一部の経済学者は唱えておりました。当時の為替レートは1ドル200-250円程度で、165円でも十分な円高だったのですね。ところが実際にはさらに円高が進み、1ドル150円を切ってしまいました。これは行き過ぎと考えた各国は、円高ドル安を是正すべきとのルーブル合意に至っております。これらから考えますと、1985年ごろの妥当なドル円は165円前後であったと見なせると思います。

この後の日本経済の強さの変化は、一つには、空洞化や情報革命への遅れというマイナスの要因があります。しかし一方では、1ドル100-120円というレベルでも、充分に水平飛行ができていた。これを可能とするだけの、生産合理化や国内と海外の棲み分けなどができていた。これはプラス面です。これらの結果GDPがフラットで推移したということは、日本の経済力は、さほど下がってもいない代わりに、特に上昇しているわけでもないと言えそうです。つまり、ひとまず165円前後、レンジで言えば150-200円/$のあたりに落ち着くのではないか、との予想が成り立つのではないか。そう私は考えております。

あるべき展開と起こりそうなこと

以上をまとめれば、現在の1ドル155-160円あたりの為替水準は、およそ妥当な水準であり、このレベルをキープすることがまず肝要かと思われます。このレベルでは、輸出産業が利益を拡大する一方で、多少強めの物価上昇率となっております。つまり、2%を理想として、現実は3%前後になりそうだ、ということですね。そういう点ではひろゆき氏の主張する「庶民の生活苦」は対処すべき問題で、特にエネルギー価格の高騰を抑える補助金政策や、子育て世代や低所得層に対するさまざまな支援制度も充実の必要はあるでしょう。これらは現に、岸田政権が取り組み始めており、これを単なる「バラマキ」などと評するのではなく、円高に伴う国民の窮乏に対する救済策として、積極的に評価すべきではないかと思います。

一方、我が国は岸田政権が円高容認の「ビナイン・ネグレクト」政策を取っていたようにも見受けられるのですが、ここにきて岸田内閣の支持率が低下しておりますことから、ポピュリスト的政策に移行する可能性もないではない。今後、石破氏の力が増大する可能性が増しておりますが、岸田政権が石破氏を取り込んだ場合も、あるいは小石川連合が政権を奪取した場合も、石破氏が総理の座を射止めるか否かに関わらず発言力を強化して、ポピュリスト的政策に移行する可能性が多分にあるのですね。

もう一つの問題は、高橋氏も指摘しておられました、円安を大惨事などと表現しておられますトランプ氏が大統領に就任する可能性が無視しえない点で、この場合には、円高を我が国に強制してくる可能性がある。これを断固として撥ね付けるだけの政治家が我が国をリードしておればよいのですが、円高指向を持つ政治家が日本を指導する立場にあった場合、この米国要求に、これ幸いと乗ってしまう可能性もある。

このような無理な円高は、我が国の経済にダメージを与える。少なくとも、輸出産業には冬の時代が再び到来し、国内への工場の回帰は困難となる。その結果、貿易赤字が増大し、いずれは円高維持が困難となる。このような事態は、世界では過去に何回か起こりました「通貨危機」として知られている現象です。発展途上国の通貨危機と異なり、国際経済の中での比重が比較的大きい日本円の通貨危機は、世界経済にも相当なダメージを与える恐れが多分にあります。この危機は、我が国の政治家が全力を尽くして避けなくてはいけない。そう、私は考えているのですが、果たしていかがなりますことか。

今日の日本が抱える問題

ポピュリズム的政策は、ただ非難すればよいというものでもなく、人間自然の感覚に基づくという背景もあります。たとえば、消費支出には「下方硬直性」があるということを理解しておかなくてはいけない。通常、収入に応じた無理のない形で支出が決まるのですが、一度ぜいたくな暮らしに慣れてしまうと、その後収入が減っても、支出はなかなか減らないという性質があります。このような特性の結果、一旦実力以上の円高時代を経験してしまうと、一国経済が傾いて円高の維持が困難になっても、支出を減らすことは難しいことが問題になる。

円安が実質的な収入減を招くことは、それ以前の円高が濡れ手に粟の高収入であったとしても、多くの国民は円安に伴う生活水準の低下を受け入れがたく感じるのですね。これは耐えるしかない問題で、一国経済が傾いた以上、収入が減っているわけですから、支出も減らすしかない。それが嫌なら、収入減の原因を正しく把握して、収入を増やすアクションを取らなくてはいけない。今日の日本の場合、経済が傾いた原因は、空洞化と情報革命への乗り遅れですから、空洞化を元に戻し、情報革命にキャッチアップすることが、まず必要となります。

空洞化は、行き過ぎた円高によって生じたのですから、為替水準を実力相応の位置まで戻すことによって、空洞化の更なる進行は止めることができる。だけど、一旦海外に出てしまった工場を国内に戻すには、それぞれコストがかかりますから、以前よりも国内立地が有利な条件を造らなくてはいけないのですね。それには、為替以外に、電気、ガス、水道、輸送手段など、さまざまなユーティリティが廉価で豊富に得られること、社会的に治安が良く、税金も安く、教育程度の高い人材がそろっていることなどの条件があります。我が国は、これらの条件は比較的満足されておりますが、税金やエネルギーコストの点では海外に後れを取っております。これらを下げる政治的アクションも求められるところでしょう。

情報革命に乗り遅れているという問題は、我が国の様々な場所で決定権を握っている人たちが、これら新しい技術に対する素養に乏しく、変化を嫌う傾向があることがその基底にあると思われます。これに関しては、人事制度や業界の慣行を、より流動的なものへと変えていく必要がある。このような変化は、一朝一夕にできるものではありませんが、一つずつ障壁を取り除く努力が必要でしょう。もう一つは、教育制度にあり、理系文系という枠を外していくこと。情報革命が起こってしまった以上、文系のエキスパートも数学は必要だし、確率・統計や数理モデルも扱えなくてはいけない。数学や統計学は理系文系を問わず必須科目とすること、各組織においては、これらの知識の乏しい人たちに再教育をし、数学的能力を責任あるポジションに付ける際の評価項目の一つとすることなども、必要な対応であると言えるでしょう。

何事であれ、変化には痛みが伴う。しかしそれを恐れていては、問題は解決しない。現在、情報技術への取り組みの遅れが明らかとなり、円安方向に動いていることは、これらの問題を解決する一つのチャンスであるともいえます。今、我が国がこのチャンスをものにしなければ、問題はさらに拡大するだけだということを認識しなくてはいけません。

1 thoughts on “高橋洋一対ひろゆき論争の行方

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