アゴラ編集部の7/11付けアゴラ記事「石丸構文は最高裁には通用しなかった:石丸氏に約72万円の支払い命令が確定」へのコメントです。
問題は、スティーブ・ジョブズ氏が「クレージーな奴に乾杯」という時のクレージーな奴に石丸氏が該当するかどうか、という点ですね。なにぶんこのクレージーな奴、「はみ出し物、反逆者、厄介者、変わり者。物事が世間と違って見える人。ルールなどわずらわしいだけの人。現状など気にもしない人」なわけですから、裁判所が彼の行為を否定することも、あって当然と思わなくちゃいけない。
同じようなことは、鈴木大拙師が「禅と日本文化」の中で「気狂い」の尊さについて語っております。こちらは、気狂いではない人の描写が参考になるでしょう。すなわち
人間普通の意識層では思想や観念が合理的に組織され、道徳的に統制配置されている。それであるから、ここではわれらはいずれも通常の、常套的の、平々凡々の俗人である。すなわちもとより無害の市民で、合法的に行為する集団の一員であるから、その点では賞賛に値するのである。しかし、かかる魂には創造の性はなく、踏みなれた径を外そうという衝動もない。
と、いうわけですね。もちろん、「クレージーな奴」だったり「気狂いの人」であったりすれば良い、というものでもないのですね。『偉大な創造をする人』であるのか、そうではないのかが最も重要な点で、それがなければただのクレージー、気狂いでしかない。この部分がどうであるかの見極めが、必要だと思います。
もちろん裁判所はルール重視だし、合法的行為を強制する。これはこれで正しいのであって、そうであるから印刷屋さんが印刷代金をきちんと回収でき、生活に支障をきたさない。それはそれで払わせればよいのだが、それ以上のとがめだては、日本の進歩を止めてしまう恐れがある。これは、堀江氏逮捕の際にも感じたことだし、その他もろもろの事件に際して感じたことでもある。こういう際には「奇貨居くべし」的な感覚も大事にしなくてはいけないのではないか、そう考える次第です。
むかしじょぶずいまいーろん