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日本が世界に尊敬されるために

池田信夫氏の8/19付けアゴラ記事「小林鷹之氏の推奨する『旧姓併記』は経済安全保障にとって危険だ」へのコメントです。


先進国では一般的に、「基本的人権」の一つとして「人格権」を認め、その一つに「氏名権」が含まれています。

氏名権は一般に、氏名を正しく呼ばれる「氏名呼称権」と、勝手に使われない「氏名専用権」が代表的ですが、「氏名の自己決定権」も氏名権の一つと考えられております。

これが先進国の人権理解の常識であるわけで、我が国がこれを軽視することは、日本という国が人権尊重に関して一段劣った国と認識される要因となります。

それでなくとも、我が国の司法は国際的に信用されず、報道の自由も相当に低いという認識が国際的に半ば常識化しております。これに加えて氏名権も尊重しませんと、わざわざパスポートに記載する形で世界にアピールする理由は全然ない。

氏名権の問題は、韓国併合の際の「創氏改名」でも問題となっております。かのお国の日本批判に油を差す理由も全然ない。ここはさっさと氏名の自己決定権を尊重する形に、制度を変更すべきところです。経団連の要望など、渡りに船だと思いますよ。


返信がついております。

霧郷虎人

> 「氏名の自己決定権」

現行法では親が決定しちゃってるわけですが、自分で好きなように変更できるようにせよとのことでしょうか?
それはそれで結構なんですが、夫婦別姓より大きな改革になりそうですね。

自由に姓名が変更できるような制度改革をしたとしても、夫婦は同姓とする束縛条件をつけても大きな問題はないかと思います。それが我が国の婚姻制度なんだとすれば異論は出ないでしょう。もっとも、国民の支持があればということですが。まあ、ほとんどの人は本気で考えてはいないと思いますけどね。


瀬尾 雄三

霧郷虎人さん

> それが我が国の婚姻制度なんだとすれば異論は出ないでしょう。

婚姻により名前が変わると、困る人は困るのですね。つまり、独身時代に論文を発表している人が婚姻により名前が変わると、氏名でサーチした際に、少しの業績しか出てこない。

これを避けるためには、旧姓を通名としておけばよいのですが、パスポートの名前が変わってしまうと、学会などの主催者側で一律ホテルの予約をした際などに、パスポートに表示された名前と宿泊者の名前が異なるという問題が生じる。

女性が活躍する時代になりますと、こうしたことがあちこちで起こるようになり、だから経団連が名前を選択できるようにしてくれといっているのでしょう。ならばそれを可能としておいても良いのではないでしょうか。公的書類に書く名前を、どちらの姓でも、同じでも別でも、自由に選べるようにすればよいだけの話なのですから。

夫婦を同姓とする考え方の元には戦前からの「制度としてのイエ」という考え方があるのかもしれません。アニメ「千と千尋の神隠し」で名前を変えることで属する世界を変えるような話ですね。たけし軍団におけるそのまんま東さんの改名などはある種のギャグで良いのでしょうけど、婚姻に際してこれを強制することは、国際社会からは、人権侵害とみなされる恐れが多分にある。こういう背景にも注意しておかなくてはいけません。


瀬尾 雄三

一つ追記です。

霧郷虎人さん

> 現行法では親が決定しちゃってるわけですが、自分で好きなように変更できるようにせよとのことでしょうか?

親が子供の名前を付けることは全く問題ありません。どちらにしても、幼児に法律行為など無理ですから。成人に関しては、名前の変更を家裁に申し出れば認められるケースもあります。これには相応の理由が必要で、無条件ではないですけど。むやみやたらと名前を変更されると、社会的な混乱を招きますので。

問題は、【国家が個人に氏名の変更を強制】すること。これは、基本的人権の侵害といわれても仕方ないと思いますよ。国でなくても、何らかの権限のある(上司など、断りにくい)人が名前を変更しろと命じることは、人権侵害にあたるでしょう。

日本で夫婦同姓なり「制度としてのイエ」にノスタルジーを感じる人が多いことは理解しますけど、これ、大東亜共栄圏を支えた思想的支柱の一つなのですね。あまりここを追求しますと、アジアに余計な疑念を抱かせ、中国韓国などの反日感情を煽ってしまうことにもなりかねない。注意が必要なところです。


霧郷虎人

> 氏名でサーチした際に、少しの業績しか出てこない。

それで特段困ることはないでしょう。私の知り合いにも、結婚で名前を変えた人はいますが、若くして教授になって、ずいぶん偉くなっておられますよ。おっしゃるように、筆名として旧姓を使い続けてもよいし、ホテルの予約などなんとでもなる話です。

私の父も結婚で名前を変えていますが、それで世界が変わったなどということは聞いたことがありません。私も結婚の際に妻が望めば喜んで姓を変更するつもりでした。手間はかかりますが、名前など単なる記号にすぎませんから。ただ、結婚により新しい家族が誕生するわけで、子供を含めた新しい家族で姓を共有することには大きな意義があると思いますよ。結婚観、家族観の違いだと言われればそれまでですが、姓も共有できない(どちらの姓を選ぶかで妥協できない)くらいなら結婚しないほうがよろしいかと。イエ制度など微塵も関係ない話です。


霧郷虎人

> 親が子供の名前を付けることは全く問題ありません。

当たり前です。新生児が自分の名前を選べる由もなし。
そうではなく、「氏名の自己決定権」があるということは、成人であれば誰でも自由に自分の名前を変更できるようにせよというご主張なのか、ということです。どうやらそうではないようですが、中途半端な権利ですね。

> 【国家が個人に氏名の変更を強制】

婚姻を強制されているわけではないので、氏名を変更したくなければ入籍しなければよいだけの話です。ある制度の適用を受けるにあたって、なんらかの制限を受けることがあるのはいたしかたないことです。単に、それが許容範囲内かどうかという判断の問題でしょう。


瀬尾 雄三

霧郷虎人さん

> それ(氏名でサーチした際に、少しの業績しか出てこないこと)で特段困ることはないでしょう。私の知り合いにも、結婚で名前を変えた人はいますが、若くして教授になって、ずいぶん偉くなっておられますよ。おっしゃるように、筆名として旧姓を使い続けてもよいし、ホテルの予約などなんとでもなる話です。

ホテルに関しては、個人がそれぞれ予約する際にはどうにでもなるのですが、学会や業界団体が集会を開催する際には、主催者側で一括予約するケースが多いのですね。そうすることで、会場費などのディスカウントが受けられるのでしょう。

こういう場合、学会などの登録名と異なる名前でホテルを予約するためには、いちいち主催者に事情を説明しなくてはいけない。これは、主催者側に余計な手間を掛けさせることだし、このために日本の戸籍制度から説明すると、戦前の「イエ制度」との関係でややこしいことにもなりかねない。特に主宰者が、中国、韓国の場合、特にデリケートな話題であるわけですね。

経団連が心配しているのはそういう事情があるのではと推察いたします。私も、海外の業界団体の大会で、予約名のスペリングを間違えられて、説明に冷や汗をかいたことがあります。この場合は、ユーザIDがメールアドレスとなっており、ユーザIDに氏名と微妙に異なるスペルが使われていたためでした。スペルミスなら理解しやすいけれど、戸籍制度から説明するのは、大変だと思いますよ。

その他、業績サーチに関しては、困らない人もいれば困る人もいる。国の制度を設計する際は、少数の困る人への対処も必要だ、ということですね。少数者への配慮ということも、現代の国家運営に際して要求されているのではないですか?


霧郷虎人

> いちいち主催者に事情を説明しなくてはいけない。

大した手間ではないでしょう。ほぼ定型文でメールすれば済む話です。

> このために日本の戸籍制度から説明すると

そんな仰々しいことをしたがるのは瀬尾さんくらいなのでは?単に旧姓を筆名として使用しているというだけで十分でしょう。なんとでもなります。

> 国の制度を設計する際は、少数の困る人への対処も必要だ

だから旧姓併記を認めたのでは?

国ごとにいろいろなルールがあるのは、誰もが了解できることです。それこそが多様性なのでは?どの国も同じルール、同じ文化になってしまえば、多様性は失われます。


瀬尾 雄三

霧郷虎人さん

> 国ごとにいろいろなルールがあるのは、誰もが了解できることです。それこそが多様性なのでは?どの国も同じルール、同じ文化になってしまえば、多様性は失われます。

多様性を尊重するということと、普遍的価値を各国が共有するということは、両立する概念です。今日の世界は、「個人とその人権を尊重する自由主義国家」と、「格式を重んじる権威主義国家」の対立という様相を呈しております。

個人とその人権を尊重する中に「多様性」も存在しえます。多様性の名のもとに権威主義まで認めてしまうと多様性も失われてしまうのですね。夫婦同姓か夫婦別姓かという選択を認めることは、多様性を尊重することであって、否定することではありません。

以前霧郷虎人さんの語られていた「婚姻を強制されているわけではないので、氏名を変更したくなければ入籍しなければよいだけの話です」といった考え方は、今日の自由主義諸国の共有する価値観からは相当に隔たったものであると言わざるを得ません。

我が国には、権威主義的思想が根強く残っており、これが自由主義諸国の常識から多少外れた印象を与えております。我が国が国際社会の中で尊敬を得るには、自らの姿勢も多少変えなくてはいけない。そういう視点も大事だと思います。


霧郷虎人

> 多様性を尊重するということと、普遍的価値を各国が共有するということは、両立する概念です。

ありきたりな反論でがっかりさせられますが、普遍的な価値をあまりにも広げてしまっては、国ごとの多様性は失われてしまいます。例えば、個人が武装する権利は普遍的な価値に含まれるのかなどとか言い出したらきりがありません。「普遍的な価値」などという曖昧模糊とした観念的な言葉には、同盟国の絆を高める名目以上の深い意味はありませんよ。

> 我が国には、権威主義的思想が根強く残っており

夫婦同姓制のどこが権威主義的なんでしょうかね?
イエ制度などというカビの生えた古臭い概念を対比として持ち出し、諸外国と横並びに自由度を上げさえすれば万事間違いなしという脳天気な主張が通るようでは、それこそ国際社会から見下されるだけなのでは?


瀬尾 雄三

青木保氏は、その著「『日本文化論』の変容」の中で、法社会学者川島武宣のイエ的社会に対する批判を以下のようにまとめた上で、「過激」との感想を述べられているのですね。

それはつまり「(1)「権威」による支配とこれへの無条件的服従、(2)個人的行動の欠如とそれに由来する個人的責任感の欠如、(3)一切の自主的な批判・反省を許さぬ社会的規範、(4)親分子分的結合の家族的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立」というわけです。

青木氏が「過激」という意味は、川島武宣氏のいう「家族的原理」が今日まで脈々と日本人の精神に影響を与えていることによるのでしょう。たしかに、自民党の派閥などを見ておりますと、このような関係は現在の社会にも色濃く残っております。そういう意味で「イエ的社会」は、そうそう古臭い概念でもないのですね。

ただ、政党は結社の自由のもとで作られているもので、その運営に際しては大きな自由度が認められてしかるべきところ。一方、行政手続きなどにおいては、このようなやり方は問題がある。つまり、自由主義社会においては認められないやり方なのですね。

ですから、個々の家庭がどうするかはそれぞれの自由に任せた上で、さまざまなやり方を行政は受け止める。そういうあり方が理想的ということでしょう。婚姻に際して、性別も問わないと言い出している一方で、姓に関しては枠をはめている。つまり、「結婚により新しい家族が誕生するわけで、子供を含めた新しい家族で姓を共有することには大きな意義がある」といった家族的原理を強制している。ここが少々おかしな点であるわけです。

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