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整合させたい記紀と魏志倭人伝

八幡和郎氏の8/29付けアゴラ記事「古代における皇位継承に謎などない」へのコメントです。


記紀の記述が全て正確であるという前提に立てば、邪馬台国九州説になるのでしょうが、魏志倭人伝の記述の多くを受け入れるとすると畿内説が浮かび上がります。後者では、記紀の記述に誤りがあるという、恐れ多い主張をせざるを得ず、この部分が心理的ブレーキになって九州説が力を持ち続けているのではないかと思います。

記紀の記述を疑い得る理由は、そもそも記紀が作られた理由が各氏の系図が互いに矛盾するという混乱があり、公式の系図をつくるという背景がありました。矛盾する系図に誤りがあることは当然であり、正しいとされる記紀の系図が真に正しいとは断言できない。つまり、疑いをはさむ余地はあるということですね。

畿内説を支持する理由は、この当時畿内に多数の渡来人がおり、丹波経由の大陸交易も行われていたこと、糸魚川流域でしか産出しないヒスイに関する記述が倭人伝に現れていることから、魏に畿内に関する知識もあったはずであり、そうであれば、九州の小国を日本の代表とは認めがたかったと思われる点が一つなのですね。

もう一つは、九州から邪馬台国に至る国々の戸数を15万戸としており、一戸5人とすれば75万人がこれら経路の国々にいたことになる。これは、この時代の日本全体の人口として考えられている100-120万人の75-63%程度と非常に大きく、他に熊襲や出雲や東海以東の国々の人口も考えれば、この人口を九州のみに収めることは難しいのですね。

もちろん、この数字は7、5、3という切りのいい数字で脚色はあったでしょうけど、概数としては正しいはずで、全くの嘘とは考えにくい。そこまで疑うと、倭人伝の他の記述も疑わざるを得ない。このあたりは感覚的な要素もあるのですが、倭人伝と記紀や考古学的事実とをすり合わせる形で妥当なところを探るというアプローチが良いのではないか、と私は考えております。そういたしますと、畿内説の優位性が浮かび上がってくるのですね。


魏志倭人伝には、邪馬台国の官として、伊支馬(イキマ)、彌馬升(ミマシ)、彌馬獲支(ミマカキ)、奴佳鞮(ヌカテ)の4人の名前が見えます。これが大和の重要人物であるなら、記紀に登場する人物との対応がとれるはずです。そこでいろいろと考えてみますと、イキマはイクメイリヒコ、ミマシはミマキノスクネ、ミマカキはミマキイリヒコ、ヌカテはタケヌナカワワケと対応する可能性に思い当たります。

ここで、イクメイリヒコは第11代垂仁天皇、ミマキイリヒコは第10代崇神天皇の和風諡号であり、11代を先に書くのは長幼の序に反します。ところで、記紀の垂仁天皇の記述は物事の始まりに関する記述が並び、その実在性に疑問が抱かれております。そこで、垂仁天皇を不在とし、その和風諡号と事績を弟9代開化天皇のものといたします。また、ミマキノスクネの名は記紀には見られないのですが、崇神天皇の后、大海姫(オオアマヒメ)の父を大海の宿祢としており、もう一人の后、御間城姫(ミマキヒメ)の父を御間城の宿祢と呼ぶことに不自然さはありません。

ここで一つ興味深い点は、イクメイリヒコとミマキイリヒコの双方に「イリヒコ」が入っていること。イリヒコは「入彦」を意味する疑いが濃厚であり、そうであるならこの二代は「入り婿」だった可能性があります。倭人伝は邪馬台国(畿内説の場合は大和)の戸数を7万戸としており、人口にして35万人、日本の人口の1/3近くを擁したはずです。これは、いわゆる大和一国に収めることは難しく、丹波大和から東海地方に至る広い領地を支配していたと考えざるを得ない。こんなことができるのは、尾張氏の当主が大和の王を兼ねていた場合なのですね。この場合、開化天皇が大海姫の父親である尾張の7代目当主建田勢であった可能性が高い。記紀が大海姫の父親を「大海の宿祢」などとした理由は、まさか開化天皇などと書けるわけがないから、ではないでしょうか。

ヤマトの王が(正確ではないにせよ)記紀と倭人伝の双方に記された一方で、そこに居を構えた倭国女王は倭人伝にのみ記述され、記紀には書かれていない。これはなぜかという謎もあるでしょう。実はこの時代、祭祀をつかさどる女性(巫女)と、武力を行使して支配を実行する男王の二重権力制である「ヒメ・ヒコ制」がとられていたのですね。卑弥呼や壱與は巫女であり、記紀には書く必要もない。ただ、迹迹日百襲姫は、どうやら壱與であった可能性もありそうです。そうであるなら、箸墓古墳には、卑弥呼と壱與が合葬された可能性が高いのですね。

壱與が迹迹日百襲姫であった場合、記紀と倭人伝に一つの付合がつきます。つまり、迹迹日百襲姫の死亡記事の後に、崇神天皇が御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称されたとの記述があるのですね。壱與が二代目倭国女王でありその死により崇神天皇が倭国王の地位を引き継いだのであれば、この記述は全く正しい。おそらくはそういうことが実際に起こったのではなかろうか、と私は推察しております。


(以下ブログ限定)こちらもご覧ください。

俯瞰:邪馬台国目次

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