郷原信郎氏の10/17付けアゴラ記事「『畝本検事総長談話』大炎上の背景にある検察の全能感と法相指揮権問題」へのコメントです。(「捏造」は「ねつ造」と書くようにします)追記あり。
捜査機関のねつ造を、従来の刑事訴訟による事実認定の枠組みを超えた強引な認定で無罪の結論を導いたが、それは、検察にとって「法と証拠」に基づく認定としては到底受け入れられるものではなかった。
『問題は、検察にあったのではなく、司法にあった』ということですね。「捜査機関のねつ造」は、それ自体が捜査機関の正当な業務を逸脱した犯罪行為なのですが、裁判官が明確な証拠もなしに「ねつ造」と断定することは、別の意味での冤罪を作り出しているともいえる。
ここは、『疑わしきは罰せず』の原則に立ち返り、「ねつ造ではないかとの疑義を否定しえない」程度の認定により無罪とすればよかったように思います。
そうであるにもかかわらず、裁判官がこのような認定したのはなぜか、という点がむしろ興味深いところですが、一つの可能性として、裁判官にも「正義の味方として脚光を浴びたい」という欲求があったのではないか、などという可能性もないとは言い切れないように、私には思われます。
検察官も人間だけど、裁判官も人間であり、さまざまな俗世間のしがらみといいますか、人情といいますか、そうしたものにとらわれてしまう。そういうことではないかな? 司法判断をAIに移行すれば、このようなしがらみを断ち切れそうな気もするのですが、よくできたAIとなりますと、このあたりも再現してしまいそうで、なかなか難しいものがありそうです。
裁判官の判断に、法と犯罪事実以外の要素が関与する作品として、横光利一著「マルクスの審判」という小説があります。この小説、青空文庫で全文を読むことができます。興ざめかもしれませんけど、結末を書いておきますね。
金持ちの遊び人が踏切事故にあい、踏切番の男が罪に問われた裁判がこの物語の全てです。この裁判官、「思想と犯罪との接触点を検点しようとして」「マルクスの思想と評伝」という書物を読み、次のように考えていたですね。
彼は世界の人心が目下の所資産家階級を撲滅しようとしてゐる無資産階級の団流と、それに対抗して無産家階級の力を圧殺しようとしてゐる資産家階級の団流とのこの二つの階級が、絶えず争つてゐるのを知つた。そのときから、十数万円の家産を持つてゐる判事の感情は、彼の理智がマルクスの理論の堂々とした正しさを肯定すればするほど、その系統に属する一切の社会思想に反感と恐怖と敵意とを持つにいたつた。」
で、最後はこういうことになる。
総ての生活の楽しみを運命的に奪はれてゐる男、その運命をつき抜けて行けない男、それが絶えず最も楽しみの焦点である街の入口で、絶えずそれらの歓楽を眺め続け、そこへ入り込む者達のために危険を教へ続けてゐなければならないと云ふことは、とにかく想像しても最も苦痛な生活の一つであるのは分つてゐた。しかし、判事は自分のただ一片の不純な恐怖のために、無罪で済まされる可きその憐れな男を今にも重罪に落し込まうとしてゐた自分のことを考へた。彼は自分の罪を感じてひやりとなつた。
「無罪にしよう。無罪だ。」
さう彼はひとり決定すると、急に掌を返すやうな爽快な気持ちになつた。
「これや俺の罪ぢやないぞ。マルクスの罪だ!」
彼は突然に大声で笑ひ出した。
「いや、何に、かまつたことはない。証拠物件として何がある。蕩児よりも番人だ!」
今は判事も全く晴れ晴れとした気持ちであつた。そして、今迄長らく自分を恐喝してゐた恐怖も、不思議に自分から飛び去つてゐるのを彼は感じた。
暫くすると、彼は安らかに眠つてゐた。丁度、マルクスに無罪を宣告された罪人であるかのやうに。
ふうむ、これってどうでしょうか。まあ、横光利一は「プロレタリア文学」の作家ですから、マルクスの主張を通すことは絶対的な正義ではあるのですが、『それでよいのか、裁判官』と言いたくなりませんでしょうか?
cyoukan