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神武東征と記紀と倭人伝の整合

金澤正由樹氏の10/22付けアゴラ記事「古代史サイエンス③:神武東征と日本建国神話は事実なのか?」へのコメントです。(10/31:追記あり)


このように、神武東征の寄港地だったほぼすべての場所では、古墳時代の開始とほぼ同時に、大和朝廷の象徴である大規模古墳が建造されているのです。これだけ一致しているなら、どう考えても偶然とは言えないでしょう。

この記述に関して、二つの点に配慮しなくてはいけません。まず第一に、記紀の成立は8世紀初頭で、これらの記述はその時点での認識に基づいたものであるということです。つまり、大規模前方後円墳のある土地を、神武東征の寄港地として記述した可能性もあるのですね。

第二には、これらの巨大前方後円墳の築造された時代は、3世紀中葉から4世紀後半であったということ。この時代は、魏志倭人伝によれば卑弥呼政権の末期以降に相当します。また、これらの巨大古墳の立地が、(邪馬台国畿内説による)半島から邪馬台国に至るルートに、ほぼ一致しております。

一方、記紀の記述と天皇陵の古さに係る考古学的研究を参照すれば、3世紀末から4世紀初頭という時代は崇神天皇の時代を含み、記紀の記述する箸墓古墳建造を嚆矢として、これら巨大古墳が建造されたと考えることもできます。

つまりは、神武東征を前提とせずとも、これら巨大古墳がこの時代、この場所に築造された説明はつくのですね。神武天皇から欠史八代に関する記紀の記述に関しては、大和の支配を正当化するなどの、また別の理由があったのではないかと思います。


以下、ブログ限定です。

10/31追記:ひとつ面白い点を指摘しておきます。

初代神武天皇には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」の美称があるのですが、これは第10代崇神天皇の「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと」と同じなのですね。この解釈として、神武天皇は初代の大和の国の王であり、崇神天皇は大和の国の王にして最初の倭国の王であるという意味とも解釈できるでしょうが、欠史8代を一つながりとするため、初代に崇神天皇のコピーを置いたという見方もできそうです。

つまり、欠史8代は、大和の国の歴史ではあるのですが、大和盆地の南部を支配した葛城氏の歴史であり、これを九州におられた崇神天皇が大和に入って第10代として引き継いだ場合、系図が一つながりにならない。そこで、欠史8代の前に九州から神武天皇が大和に入り、欠史8代はその子孫であるということにすれば、全てが一つながりになる。そういう形をとったのではないか、と私は推察しております。

似たようなことが、ヤマトタケルノミコトにもあり、この名前が第21代の雄略天皇の別名「大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)」(日本書紀)なり「大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)」(古事記)と類似しているのですね。稲荷山古墳より出土した鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵」もワカタケルですから、古くは「オオハツセ」の部分を省略することも一般的だったのでしょう。

雄略天皇は、宋書の「倭の五王」では「倭武」にあたると考えられているのですが、これ、「ワカタケル」と読める一方で、「ヤマトタケル」とも読めそうです。ひょっとすると、ヤマトタケルの挿話は、「倭の五王」の「倭武」から逆に生み出されたのかもしれない。そんな気もする次第です。

雄略期は、大和王権の支配が東国に及んだ時代であり、東国支配をより古くからした形とするために、第12代景行天皇の子として日本武尊(やまとたける)を創造し、彼が東国に支配を広げたとしたのではないか、ということですね。

記紀の書き手は読み手にこの事実を伝えるために、共通する名前というヒントを残しておいた、ということですね。これはフェアなやり方ではありますが、まじめ一徹の読み手には伝わらない。実のところ記紀の著者が何を考えていたのか、定かではないのですが、この程度の遊び心はあってもよいのではないかと思います。


その他、こちらもご覧ください。「俯瞰、邪馬台国」です。

その1:邪馬台国の人びと

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