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邪馬台国畿内説と北九州の繁栄

金澤正由樹氏の11/5付けアゴラ記事「古代史サイエンス④:デジタル地図で邪馬台国の位置が分かるのか?」へのコメントです。


図4

図5

(図4と図5:弥生時代の銅鏡の分布図を)見ればわるとおり、北部九州が近畿地方を圧倒し、実数では2桁近い差を付けています。弥生時代の銅鏡の分布から判断する限り、邪馬台国は北部九州と考えるしかないようです。

邪馬台国畿内説を取る人たちも、弥生時代に北部九州が栄えたことを否定する人は、まずおられないと思います。

西暦57年に倭国極南界の「奴国」による朝貢記録が後漢書にありますし、魏志倭人伝も奴国の人口を2万戸(1戸5人として10万人)としており、素直に読めば当時の日本の人口100~120万人の1割近くを占める大国でした。また、半島交易の窓口を伊都国としており、北部九州が栄えたこと自体は誰も否定しておりません。

邪馬台国が栄えた時期に関しては、いくつかの見方があると思います。まず、卑弥呼擁立に先立つ「倭国大乱」を後漢書は「桓霊(西暦147~188年)の間」とし、卑弥呼擁立でこれが終焉したと書いていておりますから、卑弥呼擁立は2世紀終盤と読むことができます。しかしこれでは、250年ごろと考えられる卑弥呼の没年から、早すぎるように思われます。一方、最初の卑弥呼の事績が景初2年(238年)の朝貢で、これが卑弥呼の倭王就任挨拶であると見なすならば、3世紀中旬から後半に至る期間が、卑弥呼から壱與(トヨ?)に至る邪馬台国の時代と考えることができます。

弥生時代と古墳時代の画期をどこに置くかも問題ですが、箸墓古墳建造の250年ころと考えますと、邪馬台国は弥生時代から古墳時代にまたがって栄えたと見なすことが可能で、弥生時代に限定した鏡の出土状況からの邪馬台国所在地の判断は、少々妥当性に欠けるように思われました。

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