與那覇潤氏の11/9付けアゴラ記事「道化師たちの日米選挙:なにが『チンドン屋のお祭り』を民主主義にするのか」へのコメントです。
神の栄光を ”Glory, Glory, Hallelujah!” と歌い上げるところを、「新・宿・西口・駅前と、」と店舗の所在地に変えちゃって、平気なのである。日本では讃美歌も、まさしくチンドン屋になるわけだ。
替え歌ならそれでいいけど、これが民主主義のような政治体制に及ぶと、大ごとである。個人の欲得ずくや面白がりを超えた、なんらかの聖性や崇高さを失ってしまえば、選挙は文字どおり、チンドン屋どうしの集客合戦そのものになるだろう。
昔、小泉パパが選挙の応援演説に駆け付けたのを見たことがありますけど、彼が登場するなり「きゃー!」「じゅんちゃ~ん!」ですから、ほとんど人気タレントの登場と変わらないのですね。
そういえば、クリスマスのサン・ピエトロ広場を訪れたことがありましたが、リリーフピッチャーが乗るような小さな車でローマ法王が現れますと、これもやっぱり「きゃー!」ですから、「純ちゃ~ん」と大して変わらない。どちらも人気者の登場、というわけです。
でも、小泉パパやローマ法王が人気者であるのは、ちゃんとした理由があるからであって、前者は日本を再生してくれるのではないかとの期待があったし、後者は人々の魂を救済してくれるのではないかと期待されたからなのですね。そこが面白いだけのチンドン屋とはちょっと違う。
もちろんやっていることは、ステージに立ち、手を振り、耳に心地よいことを語るのだけど、そこで何を語り、これまで何をしてきたかが問題で、ショーアップの要素があったとしても、これはおまけ的存在なのですね。まあ、れいわのそれ以外の要素に関しては、何とも言い難いものがありますが、チンドン屋的要素をもってこれを批判するのも、外している気がする次第です。
douke