金子勇氏の1/8付けアゴラ記事「『家族からの逃走』と粉末社会」へのコメントです。
なかでも「結婚からの逃走」と「家族からの逃走」という「個人的規範と行動」の問題について、今後は社会学の立場から追究したい。
前にも書いたことですけど、経済学の立場からは、少子化は簡単に説明できるのですね。つまり、「ホモ・エコノミクス」という概念がありまして、人は個人的利益を最大化するよう行動する、という原理があります。この考え方は、いろいろ批判もあり、「利他的行動」なども確かにあるのですが、それでもなお大局的に見れば、自己の利益を優先する人が多いという事実は否定できないでしょう。
で、本エントリーでも語られております「小家族化」は、農業から工業への産業構造の変化、地方から都市への人口の移動に伴い、普遍的にみられる現象で、我が国では1960年代の高度成長期からこの傾向が顕著に見られたのですね。
かつては、農村であれば田畑を家族全員がその身体能力に応じて耕しておりましたし、都市・郊外にあっても三世代同居であれば高齢者の面倒を現役層が見るということは普通でしたが、小家族化が進めば高齢者は己の生活を己が見なくてはいけない。頼れるものはお金だけ、となるわけです。
で、子供をつくればこれを育てるのにお金がかかる。しかしその見返りはなく、老後の生活は年金と貯金に頼るしかない。となりますと、子供をつくれば掛かったはずのお金を貯金することが経済合理性に適うのですね。もちろん、全員が全員「ホモ・エコノミクス」ではありませんから、なんとか最小限の出生は維持されている。でも、少子化がすすむことは、至極当然のこと。驚くようなことは何もありません。
人口を増やしたければ、成人年齢を下げればいい。