長谷川良氏の3/21付けアゴラ記事「言葉(ロゴス)の話と量子の世界」へのコメントです。
そこで新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章の書き出しの「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。すべてのものは、これによってできた」という有名な聖句が思い出される。同聖句は、現代の最先端を行く量子力学の「世界は情報から成り立っている」という世界観と重なってくる。
「はじめに言葉ありき」は、全く正しい述語なのですが、これは論理学でいう「語用論的前提」でもあるのですね。つまり、言葉がなければ、コミュニケーションが成り立たないし、聖書自体が存在しえない。
量子力学の難問である「観測問題」は、「波動関数は、観測されることによってはじめて確定する。観測されるまでは電子がどこにあるかもわからない」という事実に対して、それはなぜか、という問いでした。これに対する代表的な解釈として、「コペンハーゲン解釈」と、「多世界解釈」があります。前者は、物理学の言う事実とは、宇宙に対する人の知識の総体である、というもので、観測されない限り事実は確定しないとするものです。そして後者は、世界は観測者にとっての世界であり、観測者の数だけ世界があるとするものです。そして、コミュニケーションにより、これらの世界は共有され、普遍性を獲得していくのですね。
実は、相対論からも、物理学の描いている世界は観測者にとっての世界であるという結論が得られてしまいます。ニュートンは静止している絶対空間を想定したのですが、そんなものは存在せず、多数の慣性系で物理法則は同じように成り立つとするのが相対論の結論です。そして、空間軸と時間軸は異なる性質をもつのですが、慣性系が異なると時間軸は異なる方向を向いている。時間軸と空間軸の異なる性質は、空間自体の性質ではなく、観測者が与えたものなのですね。これから、「物理学の描く世界は観測者にとっての世界である」という結論が得られてしまいます。そしてこの結論は、量子力学の結論と一致する。めでたしめでたしです。(続く)
(続きです)観測者の精神の内にある世界は、アリストテレスの「形相因」、デカルトの「属性としての実在」として、「質料因」や「広がりとしての実在」と並存を認められている。これは今日の著作物の「無体物」と「有体物」にも対応しております。
これに対してカントは、「人はモノ自体を知り得ない」として観測者の精神の内にある世界を主とし、「他者一般にも受け入れられる普遍妥当な認識は客観的な性質を持つ、だから科学は可能なのである」としております。今日の物理学は、カント的世界観の上に構築されている、ともいえるでしょう。でも、カント哲学はそれほど一般的でもない。これが、今日の知的世界における大いなる謎、であるわけです。
カント哲学が一般化しない一つの理由は、宗教にあるのかもしれません。なにぶんハイネによりますと「カントは神の首を切り落とす」ですから。これは、アインシュタインの「神はサイコロを振り給わず」とも共通する話で、全てが人の認識の内にあるとしたら、神もまた人がそう思っているに過ぎない存在ということになってしまいます。
デカルトは、神の存在証明なども行っているのですが、「神は属性として存在する」などということもちらりと書いている。彼が本当に言いたかった言葉は、「われ思う、ゆえにわれあり。われ信ず、ゆえに神あり」だったのではないかと思うのですが、それをしなかったのには、デカルトの時代にそんなことをいうと火あぶりになる、なんて背景もあったのではないかな?
でも、属性としての存在は、命や人間精神についても言えることで、その物理的実体は複雑な化学反応であり、情報処理過程にすぎない。しかし人はその上に、命を認め精神を認めこれを尊重する。神の存在基盤がこれと同様であっても、何ら悪いものでもないのですね。まあ、そこに『普遍性』が要求されることだけは覚えておいた方が良いと思いますけど。
原人