倉沢良弦氏の3/29付けアゴラ記事「兵庫県問題と民主主義の本質」へのコメントです。
本来、改革派として大阪維新の会推薦で兵庫県の改革に乗り出した齋藤知事だった筈が、維新の会がハシゴを外し、兵庫県内の利権を失いたくない人々が、執拗に齋藤知事批判を繰り返しているに過ぎないことが、本当のところだろう。
齋藤知事を推薦した維新の会自身が、改革政党の本義を忘れ、利権構造そのものになり変わってしまおうとしている。加えて、県議会の席を失いたくない自民党議員などと兵庫版55年体制を組んでるだけだ。
良い指摘です。問題の本質はここにあったのでしょう。つまり、『大阪維新の会の変質』という点ですね。結局のところ、大阪維新の会が大阪圏で圧倒的な政治支配力を得た結果、利権構造に取り込まれてしまったということもあるのでしょう。
何だかんだ言っても、地方政治を取り巻く世界には、旧態依然たる体質がそのまま残っていたとしても不思議なことではない。これを一朝一夕に排除することは難しいのかもしれない。でも、この点は大阪維新の会のレーゾンデートル(存在意義)に係る問題であり、簡単に取り込まれてしまっては大阪維新の会が存在する理由がなくなってしまいます。
斎藤知事の側にしても、いろいろな問題があったことは事実でしょう。ただこれらは、反対派の行き過ぎた攻撃に対する行き過ぎたリアクションという側面もあり、一方的に否定できるものでもない。大阪維新の会は、斎藤知事との和睦の道を探るのが正解であるように思えます。
大阪万博を取り巻く情勢は、相当に厳しく、大阪維新の会は困難な時代を迎えつつあるように思えます。だから自民に接近するというのはわからないでもないし、最終的に自民と連立を組むのは悪い考えではないと、私も思います。でも、自らの輝ける部分を失ってしまったら、自民自身と同じになってしまう。ここは、『非自民』の一点を守り通さなければいけないところでしょう。
減税