室中善博氏の5/7付けアゴラ記事「日本が“技術立国”として再起動するために:順応から創造へ」へのコメントです。
戦後日本は、「形式への忠実さ」「規範意識」「評価への適応」を重視する教育と官僚的社会システムを構築してきた。規格に従うことは「誠実さ」の証とされ、枠組みの中での最適化こそが「優秀さ」と評価された。
この構造の中では、「制度に疑問を持つこと」や「制度を改変しようとすること」は、しばしば逸脱や不安定要素とみなされてきた。結果として、多くの組織や個人が制度に“忠実に従う”ことを美徳とし、それを越えて創造的に制度を“変えていく”という発想が根付きにくくなった。
これは日本文化の持つ一つの問題点ともいえます。柔道や華道といった伝統文化では「形の重視」が行われる。これは、正しく使われれば効率的な発展につながるのですが、無能な指導者の下では変化を阻害する要因となる。ここは欧米的合理主義に基づく「実質は形式に優先する」という基本原則を(会計以外にも)一般的な価値判断に適用しなくてはいけません。
研究段階を超えた優れた技術が実用につながらないという問題は技術的な進歩における「デスバレー」という呼び名で知られているのですが、この大きな要因に、巨額な予算が必要となる大きな判断を行う経営上層部の技術に対する理解の不足がある。形を重視する我が国の価値基準では、えてして技術的能力が誰を経営陣に入れるかという判断に反映されにくい、という傾向も、この問題に拍車をかけているのでしょう。
これに対する解決の道は、たしかに「形式的な制度の順守ではなく、歴史・思想・文化を伴った制度創造の力を取り戻す」ことではあるのですが、必要性を認識する以上に、一歩踏み出すエネルギーが必要です。我が国は何度か「制度創造」を行ってきました。それは、60年代の貿易自由化、70年代の資源エネルギー問題という危機への切迫感が駆動力となりました。
今は、30年にわたる成長停滞という見えにくい慢性的危機ではありますが、いくつかの企業で問題が表面化するなど、そろそろその問題が見えております。ここは、問題の総合的な解析とその裏にある主因を明確にする、危機の認識が重要であるように思われます。
むずい