コンテンツへスキップ

社会関係と隠喩「母性と父性」

與那覇潤氏の5/13付けアゴラ記事「国が亡び、父が消えたあと、人はどう生きるのか:『江藤淳と加藤典洋』序文③」へのコメントです。


前回の記事では、戦後の日本がいかに「母性社会」と呼ばれてきたかの輪郭を見た。その原点に、うちの国はもう強い父親像とかムリっす、と思い知らされた敗戦の体験があったのは、まちがいなく事実である。

とはいえ、われわれは生きないといけない。なんかもう「この人が立派な大人!」みたいなお手本っていないよねと感じても、時が来ればぼくらはみんな成人して、オトナであれと迫られる。

母性と父性のメタファーは、人と自然の関係や社会関係の中で良く用いられております。人は自然に抱擁されて生きている。これを表現する言葉が「母なる大地」であり「母なる海」ですね。一方「父性」に関しては「パターナリズム(父権主義・温情主義)」に代表される社会関係に使われており、こちらは従属と擁護を交換する関係なのですね。

パターナリズムをベースとする社会関係は、普通は封建制のもとで成り立つと思われがちですが、終身雇用に象徴的な我が国の雇用制度も、その根底にあるのはパターナリズム(父権主義)で、よく言えば「家族経営(温情主義)」ということになる。それが国家間の関係までを規定するのはおかしいと言えばおかしいけれど、それを不思議とは思わないのが日本社会の常識というものなのでしょう。

このパターナリズム、日本だけの現象ではなく、朝鮮半島から中国に至る、アジアには普遍的な長老支配にも見ることができます。まあ、経験があればそれだけ生きる知恵もつこうというものですが、それが成り立つのは同じことの繰り返し。農耕民族がまさにそういう生き方をしてきた。下部構造が上部構造を規定しております。

まあ、そういう文化だと言ってしまえばそれまでなのですが、これでは変化の激しい時代には対応できない。日本人、否、アジア全体の人びとも、そろそろパターナリズムのくびきを逃れ、個々人がおのれの判断に従い人生を切り開く、そういう形に移行しなくてはいけないはず。雇用制度の改革も、そうした背景を考えれば、必須といえるでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です