黒坂岳央氏の6/1付けアゴラ記事「バカにバカと言えない令和」へのコメントです。
ここでいうバカとは「バカな行動」、すなわち誤った行動を指している。…
能力は固定値だが、行動は変動値である。つまり、本人の意識と努力によって改善可能な行動だ。
かなり苦しい論理ですが、結局のところ「バカな行動を高頻度で行う人物をバカという」といった定義に落ち着くのではないでしょうか。それは、個人の属性の一つであって、本人の意識と努力で改善可能な属性ではありますが、どうしようもない場合もある。特に、本人が自分がバカであることに気付いていない確率が極めて高い。なにしろ、バカなのですから。そしてこの場合は、改善されることは期待薄なのですね。
私のD論は「電子的コミュニケーションにおける社会関係の研究―対立のダイナミズム―」というタイトルなのですが、ネット上のコミュニケーションにおいて「バカ」なる言葉が発せられると高い確率で炎上に至ることを見出し、バカを研究せんと、これに関する書籍を集めたのですね。で、一つ面白い現象は、タイトルに「バカ」を含む書籍はベストセラーになる確率が高い。呉智英氏の「バカにつける薬」、中川淳一郎氏の「ウェブはバカと暇人のもの」、養老孟司氏の「バカの壁」、堀江貴文氏の「バカは最強の法則」、などなど。最近はこれに気付かれたか、バカを含む表題の書籍が多数出版され、バカボンのコレクションは止めてます。ま、サルトル氏の「家の馬鹿息子(1)、(2)、(3)、(4)、(5)」に出会ったところで打ち切る気になったのですが。
バカに関する研究書として、ホルスト・ガイヤー氏の「馬鹿について」があり、「馬の馬鹿は病気とみなされるが、人間の馬鹿は病気とはみなされない、それどころかある場合には好ましい特性とみなされる」としております。その好ましい特性とみなされる代表例が「軍隊」。まあ、わからないでもないのですが。
それはともかく、馬鹿は他人がとやかく言う必要もない、本人が幸せならよいと私も思います。このような馬鹿を描いた代表的な映画作品が「フォレスト・ガンプ/一期一会」でして、この題名とホルスト・ガイヤーの音の一致が気になるところですが、まあ、無害なら問題はない。問題があるのは、大臣だとか会社の経営陣だとか大統領だとかがバカな場合で、誰とは言いませんけど、こちらは大いに問題になる。これはどなたかが、それとなく、助言してあげなくてはいけないでしょう。
肝心なことを書き忘れました。用語「馬鹿」もしくは「バカ」が問題になるのは、特定の人物を「バカである」と決めつけることです。絶対評価としてのバカなど、そもそも存在しないのですね。
もう一つまずいのは、A氏はB氏よりバカであるといった相対評価で、「小泉農水相に比べて前任者は○○である」というような評価は少々まずい。「君子は周して比せず、小人は比して周せず(論語)」といいます。人を比較して評価するのは人間関係を壊す原因となります。
バカを評価する必要が生じるのは、その人が就くべき任務・職責に対して必要な能力・人格を有するか否かという局面で、この場合は、ジョブディスクリプションに対応する能力の有無が問題となる。で、これが不足している場合は、「能力不足」と評価するのが妥当ですが、あくまで職務に要求される能力に比べて当人の能力が不足している、という意味であるわけですね。
これを端的に表現すれば「無能」ということになりますが、「あくまで要求される能力がない」、ということであり、どんなことをやらせてもダメである、という意味ではないことに注意しなくてはいけません。ただし「バカ・馬鹿」なる表現では、完全に誤解されると思います。なにぶん、新明解の「馬鹿」の一部は次のようになっておりますので(一部分かりやすいように改変しています)。
人をののしるときに一番普通に使うが、公の席で使うと刺激が強すぎることが有る。また身近の者に対して親しみを込めて使うことも有る。例、「あのばかが《女性語で相手に甘えるときの言い方》」
ba