與那覇潤氏の6/17付けアゴラ記事「なぜ、悪口や不謹慎にも『寛容であるべき』なのか:日中戦争からウクライナへ」へのコメントです。
しかし、なぜ「悪口」にも自由を認めるのか? 自由主義の伝統が弱い日本では、これをわかっていない人が昔から多い。2020年代、コロナやウクライナが醸し出す「戦時」の空気の中で、その傾向はより強まっている。
いまは(比喩であれ)戦時下なんだから、「不謹慎」は取り締まって当然とする風潮に乗り、(たとえ事実の指摘でも)自分が不快に感じたらぜんぶ「中傷」だと独自の定義を振りかざし、なにかあったら「戦争に尽くす私の邪魔をするのか!」と叫べばいい――みたいな人がいるわけですね。
「悪口」とは何か、という問題ですね。「おまえのかーちゃんでーべそ」みたいな、全然現実とリンクしない侮蔑の言葉は悪口としか言いようありませんが、ヒットラーと同じ思想に分類される人を「ヒットラー」と指摘することは悪口でもない。暗喩、というものをわからなくてはいけません。我が国には「リベラル」を自称する人が多い割には、「自由主義」が根付いていない。これはその通りです。
「不謹慎」という批判は「権威主義」がベースにある場合が多く、人格権に基づくものや宗教的権威など、公に認められる権威などを除いて、あまり口にすべき言葉ではありません。これ、別の言葉で言えば「タブー」ということで、大学などにおける軍事研究なども、本来はケースバイケースで認めるべきところ。右も左も、我が国には権威主義者が多すぎます。
タブーを最小限に抑えて、言論の自由を幅広く確保すること、相互批判を活発に行うことは、多くの人が真実と考える事柄の真実性をより高め、間違いを少なくします。これすなわち、ポパーの「反証可能性」ですね。言説は、批判を許し、これにきちんと答えることでより真実性を高める、というわけです。
権威主義的組織が失敗する可能性が高いことは、事実と異なる、間違った認識に基づいて行動することから説明できそうです。かつての日本軍のように、あとから考えればバカみたいなことを、当時の人たちは真剣にやっていた。それが大々的に行われたのが共産主義だったのですが、いずれにいたしましても、権威主義の弊害には、大いに気を付けなくてはいけません。
kinnshin