尾藤克之氏の6/19付けアゴラ記事「学歴コンプレックスは男の病?男女の思考差で文章はこう変わる」へのコメントです。
大きな違いは論理的か感情的かの差です。女性からしたら男性の話は、「へえー、それで?」と物足りなく感じるでしょう。一方、男性からすると女性の話は、「要点は何?」と思うかもしれません。
なるほど、たしかにこれ(叙事的か、叙情的かの差)は、男性と女性の差であるのかもしれません。ドナルド・キーン氏の「百代の過客」は、日本文学の特徴を、中国その他の文学と比較して、前者を叙情的、後者を叙事的としていたのですね。そこに気付いたきっかけを、彼は以下のように書きます。
数年前のことだが、私はコロンビア大学で博士論文の審査に加わったことがある。私が扱った論文は二つで、一つは日本文学「夜半(よわ)の寝覚(ねざめ)」の一部訳と論考、他は明朝後期に出た中国の小説何篇かの論考であった。他にこれ以上著しい対照を考えることが、一体誰に出来たであろうか。『夜半の目覚』は、行動というものを全くと言ってよいほど含まず、女主人公の寝覚の思いの形を借りて、ほとんど全面的に心の内側から語られている。それに反して中国の小説のほうは、登場人物の内面には決して踏み込まずに、時にはわくわくするような、時には悲劇的な事件を、徹底して外面的に描き出している。しかもこれらは、なにも例外的な作品ではないのである。平安期以来、最も典型的な日本文学は、常に内省的であった。ここでいささか大ざっぱな分類を試みるなら、日本の小説は自伝的になりがちだが、中国の小説は伝記的なのである。
まあ、「夜半の寝覚」は特に登場人物の内面描写に偏ったことで知られる日記文学で、これを日本文学の代表例とするのはどうかと思いますけど、叙情性を日本文学の特徴とするとの指摘は、アニメ「セーラームーン」を「トムとジェリー」と立て続けに見て感じた『違和感』というか『異世界感』を見事に表現する形容詞であるように感じた次第。
ただしこれらは日本とそれ以外という対比以外に、女流文学とそれ以外という対比もできますね、という点がこのエントリーから気付かされたところです。まあ、「日本文学の伝統は私小説である」などという見方もありますから、日本の特徴と言えなくもないし、それをトータル致しますと、日本人は女性的感覚の持ち主である、ないし、日本の精神文化を担っているのは女性たちである、ということであるのかもしれません。
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