岡本裕明氏の7/8付アゴラ記事「日本からアメリカを取ったら何が残るか?」へのコメントです。
”日本ー米国”が何かといえば、本居宣長氏に言わせれば「もののあわれ」、鈴木大拙師流にいえば「理にとらわれぬ心」ではないでしょうか。元々、東洋的思想は、論理を超越した人間本来の感覚を重視するところがあり、ハイデガーに言わせれば初期のギリシャの哲学にもそうした考え方が色濃く残っていたのですが、やがて論理重視、理性中心の考え方になる。その結果、論理的に求められた理想、「イデオロギー」なり「宗教的教義」が人間世界を支配するようになりました。
かつて文化庁長官を務められました青木保氏の「多文化世界」はお求めやすい岩波新書の一冊なのですが、バーリンを引いて次のように述べておられます。
バーリンはイデオロギーは人間の理想を鼓舞する一方、人間性をおとしめたり抑圧したりする、この問題については、19世紀の最も鋭い社会思想家でさえ誰一人として予言していないと述べています。近代思想の中で、社会改革のイデオロギーは常にプラスの方向、よりよいものであると捉えられていました。それはフランス革命以来、人間の理想の追求の一環として捉えられてきたからだと言えるでしょう。
ただ、20世紀を振り返ってみますと、理想主義に貫かれたイデオロギーのもたらしたものは、結果的に反人間的な行いであり、価値の分断であり、ナチズムに象徴されるように、人類の一体化よりはむしろ人類の分断であり、抑圧であったと言えます。これは大変不幸なことだったと思います。
今日の世界を支配しているのは、さまざまな形での論理であり、イデオロギーであり、教義であり、理性が世界を支配しているといってもよいでしょう。でもその理性が完全なものでないことは、200年も前にカントが指摘している。今日では、論理が完全でないこと自体が論理的に実証されているという末期的状況にきているのですね。まさに、「理性という名の狂気」が支配している。それが今日の世界なのですね。
そこで、日本が西欧社会のくびきを逃れ、自らの自由な精神を発露するとき、もしかするとその思想は世界を救うものになるかもしれない。似たようなことをかつて人類は経験している。それはルネッサンス。人間中心主義への回帰、くだらぬ論理からの人間解放なのですね。世界の夜明けは近いぜよ、などという声が聞こえるような気がしませんか?