浦野文孝氏の8/16付けアゴラ記事「箸墓は卑弥呼の墓ではない:3つの根拠はどれも不十分」へのコメントです。
箸墓古墳を卑弥呼の墓であるとする説の最も基本的な要素は、魏志倭人伝が卑弥呼の墓を「径百余歩(約150m)」としていることで、箸墓古墳の後円部の径に一致することなのですね。箸墓が卑弥呼の墓であれば、その築造は西暦250年前後でなくてはいけません。
一方、記紀の記述によれば箸墓の築造は崇神天皇の時代で、崇神天皇の在位は3世紀の末からの古墳時代前期と考えられており、箸墓の築造は、早くても西暦300年前後ということになります。
記紀は、箸墓の埋葬者を倭迹迹日百襲姫命(トトヒモモソヒメノミコト)としており、彼女の死亡記事に次いで、崇神天皇が「御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と呼ばれるようになったとしております。「ハツクニシラス」とは「初代」を意味し、第十代としている記紀の記述とは矛盾するのですが、大和の王ではなく、「倭国王」の地位を引き継いだと考えれば、この矛盾は解消します。もちろん、倭国王としては卑弥呼、壹與に次ぐ第三代ではあるのですが、男王として、あるいは大和王としては最初ということもできるでしょう。
魏志倭人伝は、卑弥呼の次の倭国女王を壹與(イヨ)としており、西晋時代の泰始2年(266年)の朝貢は彼女による可能性が高いものと思われます。箸墓古墳が彼女の墓であれば、すなわち記紀に書かれた倭迹迹日百襲姫命が壹與と同一人物であるなら、年代的な矛盾はなくなります。そして面白いことに、箸墓古墳の別名は「大市墓」なのですね。ここに「イチ」の音が一致しております。
そうなりますと、卑弥呼の墓はどうなったかということになるのですが、ここに一つの解があるのですね。箸墓の前方部と後円部でテラス(段)の高さがずれており、築造時期が異なる可能性が指摘されております。卑弥呼の円墳に壹與の墓を継ぎ足して前方後円墳にした、これならすべて丸く収まるわけでして、私はこの説を取りたいと考えております。まあ、真実は、調停で決まるものではなく、最初から一つなのですが。
もう一つ、次の部分も訂正が必要だと思います。
魏志倭人伝によると卑弥呼は247年頃に死んだとされます。
魏志倭人伝は、卑弥呼死亡(【】部)の前後を次のように記しております。出典https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm、一部修正)
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之【卑彌呼以死】大作冢 徑百餘歩
読み下し文:塞曹掾史、張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為りてこれを告諭す。【卑弥呼の死を以って】大いに冢を作る。径は百余歩。
ここで、「張政等を遣わし」たのは西暦247年からさほど経過していない時点と思われますが、【卑彌呼以死】が247年の記事につながるようには思えないのですね。何分、これをつなげて読んでしまいますと、「張政等を遣わ」されたことが卑弥呼の死亡原因になってしまいますから。
ここは、「卑彌呼以死大作冢」と続けて読んで、「卑弥呼が死んだので大いに冢(塚:墓の意)を作った」と解釈するのが妥当であるように思われます。この場合、卑弥呼の死亡は247年に近い必要はなく、むしろ壹與の朝貢した266年以前のこれに近い時期と解釈するのが妥当であるように思われます。このように解釈した上で、前記の二段階築造説を受け入れれば、3世紀後半と思われる記紀側の箸墓築造時期と魏志倭人伝の間に、さほどの矛盾もないように思われます。