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今日はソ連がチェコ侵攻した日

1968年の8月20日は、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が、「プラハの春」を抑圧するため、チェコスロバキアに侵攻した日です。この動乱の結果、この日から翌日にかけて100人以上の犠牲者が出ております。それにしても1968年はいろいろなことがありました。


プラハの春のきっかけは、1月5日にアレクサンデル・ドゥプチェクがチェコの第一書記に選出され、国民に広範な自由を認めたうえで、分権化と民主化を推進しようとしたこと。今日ではあたり前のこれらの政策は、ソ連の政策とは相いれず、最終的にこの日のワルシャワ条約機構軍のプラハ制圧に至っております。

1968年はまた、学生運動が盛んな年で、同年3月から5月にかけては、米国コロンビア大学で、のちに「イチゴ白書」として映画化される元となりました抗議活動が行われております。また、フランスでは5月危機と呼ばれる、学生を主体とする動乱がパリで発生し、翌年のドゴール退陣につながっております。

我が国でもこの年は、1970年の日米安保条約改定を控えておりましたことから、深刻化するベトナム戦争に対する反戦運動が活発化し、各地の大学で学生運動が活発化しました。象徴的な事件として、翌年1月18日には、学生と機動隊との間に、東大安田講堂攻防戦勃発しております。また、米諜報船「プエブロ号」を北朝鮮が拿捕したことから、米朝の間に緊張感が高まり、佐世保に入港しておりました米空母「エンタープライズ」が、我が国反戦活動家たちによります寄港反対運動の高まる中を、佐世保港を出港して北朝鮮に向かうという、緊張感高まる事件も勃発しております。

一つ興味深い点は、パリの学生運動の思想的支柱となっておりました左寄りの思想家、ジャン・ポール・サルトルが、チェコ動乱に対してソ連を手厳しく非難したことです。また、同時に彼は、チェコ動乱を喜ぶ右派(反ソ連)の政治家、言論人も非難しております。「ソ連のプラハ侵攻を喜ぶ人に、ソ連を非難する資格はない」というわけですね。これは、我が国で能登半島地震の発生を「幸いにも」などと形容して非難されたのと同じで、悲劇を喜ぶ行為そのものが非倫理的行為だというわけです。そのような非倫理的人間にソ連の非倫理的行為を糾弾する資格はない、というわけですね。

この話を最近思い出したのは、トランプ氏の関税に関すする手のひら返し(15%が上乗せか否か)に対して赤沢氏が急遽訪米を決めた際の野田氏のうれしそうな顔を見たからなのですね。確かに、赤沢氏のやり方が稚拙であることは論を待たないのですが、ある種の国難に対して、うれしそうな顔を見せるのは、日本の政治家としてはどうかと思った次第。そこから、ソ連のチェコ侵攻を喜ぶ右派に対するサルトル氏の批判を思い出した、というわけです。

ともあれ、1968年の一つのポイントは、オーソリティ(既存秩序)に対する若者の反抗という側面があったのでしょう。これは、激しさを増すベトナム戦争に対する反戦運動が一つの要素ではありました。米国においてはアフリカ系米国人に対する差別的扱いが問題となっておりました。4月4日にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がテネシー州メンフィスで暗殺されており、人種問題に対する世間の関心が高まっていたのですね。コロンビア大学における学生運動も、人種差別的な体育館建設計画がその一要因ではありました。また、秘密裏になされた軍と大学の関係もその原因で、ベトナム反戦運動と人種問題が、その重要な要因となっておりました。

文化面では、ロック、ヒッピー、アングラ演劇などに代表される「カウンターカルチャー」がありました。我が国で同年7月11日に創刊されました「少年ジャンプ」もその一つの動きに数えることができるでしょう。同誌に初期に連載された代表的作品であります永井豪作「ハレンチ学園」は、単なるスカートめくりのエッチな漫画というとらえ方もされておりますが、永井豪氏にしてみればPTA等からの激しい批判の標的となり、作者の人格攻撃にまで発展。ただ永井本人としては、学生時代に教諭が女子生徒の体を触り、その場は教諭個人の冗談を含む一過性の性的揶揄と思ったが、後で隠れて泣いている女子生徒を目の当たりにし、その目撃談を元にデフォルメして作品を描いたという経緯であって、糾弾にまで至った事に困惑していた」ということであり、その精神は「反抗」であったわけですね。PTAなどからくわえられた多くの糾弾に対して、この真意を正確に読み取った評論家もおられたことが救いとなっております。

我が国の漫画雑誌は、少年マガジンに先立って1959年には少年マガジンと少年サンデーが創刊されておりますが、少年ジャンプの創刊により、漫画文化はより過激になったということもできるでしょう。そしてこれがのちの日本文化を代表する、漫画、アニメ、ゲームとして発展していく。これらはカウンターカルチャーを発展させた形で現代の人類文化の一部を構成しております。

この年の日本の大問題は、東大に端を発する学生運動もありましたが、一方で公害問題が深刻化したことです。1968年は厚生省がカドミウム中毒によるイタイイタイ病と認定した年ですし、水俣病の原因がメチル水銀であることが判明した年でもあります。これらは、“Itai-itai disease”、“Minamata disease”として、日本語がそのまま英語になっております。あまり自慢にはなりませんが、TunamiやAnime、Otakuみたいなものです。

1968年を締めくくる同年最大の出来事は、クリスマスイブに月周回軌道上のアポロ8号が月の地平線から昇る地球のカラー映像を人類に届けたことでしょう。アポロ宇宙飛行士の言葉「我々は月を探索するためにここまでやってきた。しかし、最も重要な発見は地球そのものだった」は、まったく感動的ですらあります。映画「2001年宇宙の旅」におけるモノリス、それが現実世界では地球そのものだったのですね。

いろいろなことがありました1968年ですが、アポロ8号の成功をこの年最大の出来事とする人が多いことは救いでもあります。Wikipediaは以下のように書いております。

8号の飛行が行われた1968年は、アメリカや多くの世界にとっても騒乱の年だった。この年にはヨーロッパやアメリカの街角ではプラハの春に代表されるような多くの政治的動乱や暗殺が発生したが、タイム紙は三人の飛行士を1968年に最も大きな影響を与えた人物であるパーソン・オブ・ザ・イヤー (Men of the Year) に選んだ。
……
8号の飛行で最も有名なのは、月周回軌道四周目に撮影された地球の出の写真であろ。人類がこのような光景をカメラに収めたのは史上初めてのことで、これが1970年に初めて地球の日が制定される契機になったと信じられている。またこの写真はライフ紙によって、「世界を変えた100枚の写真」の第一位に選ばれた

1968年以降、世界の秩序はひっくり返ってしまった。OPECが原油の価格決定権を石油メジャーから奪い取り、米国がベトナム戦争に事実上の敗退をきたし、日本の自動車産業や電機産業が世界を席巻する。科学技術万能の時代から、資源環境面や人権も大きく意識される時代、それが続く1970年代だったのですね。思想面では、欧米文化中心の「大きな物語」が終焉を迎え、多文化共存のポストモダンの時代になる。80年代には情報技術が急進展して社会関係のあり方からして変化してしまう。

そういう大変化のさきがけが1968年にみられる。これは大変興味深いことではないでしょうか。プラハの春にしたところで、80年代終わりから90年代初頭にかけてのソヴィエト崩壊のプロローグにあたるわけだし、若者の反抗がのちの情報革命を支える精神的エネルギーにもなったのですから。

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