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「あり得る」と「ある」は違う

八幡和郎氏の11/19付けアゴラ記事「日米は台湾の武力解放にいかなる理屈で反対しているのかを考察」へのコメントです。


ただ、これまでは自衛隊の参加もあるかもしれないとは言わなかったが、今回の髙市発言は可能性はあると明言してしまったところが問題になっているのである。これまでもあるかもしれないと思っていたが、あると言わないので黙認していたが、あると言われたら黙っているわけにはいかないのは当然だ。

「あると言われたら」は成り立っていないですよ。「あり得る」と言っただけです。

「あり得る」とは「可能性はある」ということで、「あるかもしれない」と同義で、「ある」とは全然異なる。この点にご注意ください。

中国側が怒っているのは、「あり得ない」と言わなかったことでしょう。それを言わせるために、岡田氏は一生懸命頑張ったのではないかな? でもこのような決定的なことを言ってしまうと、中国の台湾進攻にお墨付きを与えかねない。「あり得ない」は、高市氏が絶対口にしてはいけない言葉でした。口にできる言葉は「あり得る」だけだったのですね。

ここは、「あるかもしれないしないかもしれない」という状態に保つしかない。それは、ノーコメントでも、可能性の肯定でも、意味論的には何ら異なるところはないのですね。肯定と否定と可能性について、日本語の意味を、論理的にきちんと詰めて考えなくてはいけません。


ひょっとすると、論理的思考を「真」と「偽」の二値で行うことが今日一般的であるという点が問題になっているのかもしれません。

これ、放射線被ばくや薬害関連の議論でもあったのですが、「無害」か「有害」かのいずれかである、という形に問題設定する人が多いのですね。実際にはこの間に「不明」という状態がある場合が多い。現実的な問題の場合、ほとんどがそうではないかと思います。

今回の「存立危機事態」なり「自衛隊の参加」についても、「ある」と「ない」だけではなく「不明」という状態があるわけで、何も語らないのも「可能性はある」というのも「あり得る」というのも、いずれも「不明」というステータスにあることを明言していることにほかなりません。

これは、従来からの日本の立場を踏襲するもので、日本政府が言っていることは、全く正しい。では、なぜ中国がこれに怒るかといえば、彼らは他のステータスを期待していたと考えるしかなく、たぶんそれは「ない」だったのではないか、というのが上の私のコメントの真意です。

三値論理を含む多値論理は、ポーランドの文部大臣も務められましたヤン・ウカシェビッチ氏が研究されたもので、彼は計算を機械処理する際に便利な「ポーランド記法」の提唱者としても知られております。もっともこちらは、「逆ポーランド記法」が使われているのですが。その他、アリストテレスの論理学も研究された、本物の哲学者ともいうべき、すごい方でした。今日の人間も彼を見習わなければいけません。


以下はブログ限定です。実は二値論理でも、このあたりのことはきちんと定義できます。論理記号を使って表現すると、次のようになります。

ます、『ある』に相当する表現は、『∀(全称限量記号)』を使って、「 ∀ケース∈海上封鎖に伴う米中武力行使(存立危機事態(ケース))」とすれば、「海上封鎖に伴う米中武力行使のあらゆるケースに対して、命題『このケースは存立危機事態である』が成り立つ」という意味になります。

また、『あり得る』に相当する表現は、『∃(存在限量記号)』を使って、「 ∃ケース∈海上封鎖に伴う米中武力行使(存立危機事態(ケース))」とすれば、「海上封鎖に伴う米中武力行使というケースのいずれかは、命題『このケースは存立危機事態である』が成り立つ」という意味になります。

ちなみに、あり得ないは、「『∀(全称限量記号)』と『⌐(否定記号)』を使って、「 ∀ケース∈海上封鎖に伴う米中武力行使(⌐存立危機事態(ケース))」とすれば、「海上封鎖に伴う米中武力行使のあらゆるケースに対して、命題『このケースは存立危機事態である』が成り立たない」という意味になります。

今回高市総理が答弁されたのは、二番目の意味だということ。つまり、「存立危機事態となるケースもあり得る」ということですね。しかし、二値論理を当然と考える人の中には、二番目の状態を受け入れがたい方もおられるようで、高市氏の答弁を一番目の意味にとらえている方もおられるように見受けられます。この辺りは、論理学をきちんと学ばれて、∀と∃の概念を把握しておく必要があります。

この手の誤解は、単なる無知というわけではなく、実は「寛容の原理」というのが論理の世界にもあり、「偽であるといえないものは真とみなす」という考え方もあるのですね。これは例えば誰かが間違いを犯していると指摘する際などに有効な原則です。

私が見かけた例では、「この扉は終点以外では開きません」と書かれたバスの扉が終点で開かないことに文句を言う乗客がいたのですが、これは、寛容の原理ゆえに間違ったクレームなのですね。なにぶん、この扉が終点で開くか開かないかなどということは、どこにも書かれていないのですから。終点での扉の開閉は不明であり、開いても開かなくても運転手は間違ったことをしているわけではないのですね。

刑事事件の例では、「推定無罪」や「疑わしきは罰せず」などの原則も寛容原理の一形態ではあります。とはいえ、今回のケースでは、『どちらともいえない』が一つの重要な状態であり、この状態も受け入れる必要がある。寛容原則を適用してはいけない問題です。

論理記号を用いて厳密な議論を行えば、国会も紛糾しないし、誤解の入り込む余地もなく、国際的な合意も取りやすいという利点があります。でも、これをやるには国会議事堂にホワイトボードを導入する必要があり、後ろのひな壇とのレイアウトをどうするかという、幾何学的問題も発生しそうです。まあ、最新の電子技術を用いれば、液タブに描いた図形や数式を各議員の机上に設けたタブレットに表示するなどの手段も取りえそうで、こちらは大した問題でもないかもしれません。それよりも、議員の方々に論理学を学んでいただくことが、まず必要で、こちらの方が少々難題かもしれません。でも、論理に関する一般常識は、議論をするうえでも必要なのではないかと思うのですね。

一方、「『(1) 存立危機事態となる場合』と『(2) ならない場合』と、『(3) 双方の可能性のある場合』の三通りあるけど、今回は(3)です」と言えば、話は簡単でした。ただし、この命題から論理展開する際には、三値論理の演算規則を適用しなくてはならず、こちらはちょっと難物です。まあ、命題を天下り的に受け入れていただけるなら、それでも良いのですが。あ、「やだ」もありますけど。