SmartFLASHの6/4付けBLOGOS記事「麻生大臣、『他国と比べて日本は民度レベルが違う』発言が物議」にコメントしました。
民度というものは、それぞれの多数の性質を、評価者が好ましいと思われる方向と重要度に応じて重みづけをして算出するものですから、評価する人によって異なる方向を向いているのですね。
多変量解析を用いて新製品の好感度を求めるような場合に、ユーザの評価基準を表す「選好ベクトル」というものが計測されるのですが、似たようなベクトルを物差しとして「民度」も計測されるのですね。
「民度」の評価基準には、「若々しい」とか「老成している」とか「美形である」とか「賢そうである」とか「漢字がちゃんと読める」とか「健康そうだ」など、様々な評価基準があり、評価する者がそのいずれを重視するかによって誰の民度が高く誰の民度が低いかが決まってまいります。
西欧の評価基準で見れば、日本人の民度など下の下でしょう。なにぶん、キリスト教徒がほとんどいない。日本人は、怪しげな現地宗教を信じているか、そもそも神を信じない未開民族だ、と思われているのが関の山です。勝手な評価基準で高い評価を与えて、えばってみても始まらないのですね。
麻生氏の評価は麻生氏の評価基準によるものであることは当然だと思うのですが、これを問題視する人は民度の客観的な評価基準を前提としているように思われ、こちらはこちらで問題があるように思われます。
まあ別に、麻生氏を擁護したいわけではないのですけど、、、
6/7追加:「民度」という言葉は、一般的には、文化的レベルの高低を表す意味で使われており、麻生氏がおそらく意味している「お上の要請に忠実に従う」という意味での用法は一般的とはいいがたいように思われます。
まあ、そういう文化の人たちには「民度」とは「権威に対する従順さ」を意味するのかもしれませんがこれは相当に後進的な世界、「封建社会の常識」ともいうべき世界であるように思われるのですね。
逆に言えば、そういう常識をもっている集団は文化的レベルが低い、すなわち「民度が低い」ということもできるわけで、麻生氏の民度は低い、などという言い方も可能になってしまいます。
文化的レベルの高低で言えば、識字能力はそのもっとも重要な因子とも考えられているのですが、我が国における識字能力は漢字の読解力とみなす考え方も古くからあり、麻生氏はこの部分で多少劣っていると多くの人に思われているのではないでしょうか。
漢字の読解力を識字能力とみなす考え方については、たとえば永井荷風著「妾宅」(青空文庫所蔵)の以下の記述などにも触れられています。
お妾は無論芸者であった。仲之町(なかのちょう)で一時(いちじ)は鳴(なら)した腕。芸には達者な代り、全く無筆(むひつ)である。稽古本(けいこぼん)で見馴れた仮名より外には何にも読めない明盲目(あきめくら)である。
「あきめくら」は、今日は政治的に問題がある言葉としてあまり使用されていないのですが、文字の読めない「文盲」(これだって政治的にまずいはずですが)を意味する言葉として江戸時代から使用されておりました。
「文盲」とは、すべての種類の文字が読めない意味に一般的に解釈されるのですが、我が国において「文字が読めない」という意味は、「漢字が読めない」ことを意味し、ひらがなが読めたところで文字が読めるうちには入っていなかったのですね。
これは、江戸時代から脈々と続く我が国の文化的レベルの高さ(つまりは民度の高さ)を意味する言葉でもあるのですが、そういう意味で麻生氏が誇っているようには全然思われないところがちょっと悲しい。
だからどうというわけではないのですが、ふと思ったところを記した次第。
日本人は本当に民度が高いと思う。
水に流すという素晴らしい文化態度で、アメリカに対して民族的恨みを持たなかった。
その結果、アメリカの友好国となりたくさんの技術や富を受けることができた。
いつまでもいつまでもアメリカ人めーとかいっていて、アメリカ人の恨みをもっていたら、いまだ復興すらおぼつかなかっただろう。
私は思います。今回の黒人暴動の件も韓国も中国も民族の被害妄想から解放されるべきだと
あと私はキリスト教には多少理解を示す。
まあ、理解するのと受け入れるのは別物という意味で。
一応聖書は5回ほど読んだ。
それで彼らとの理解をしたいと思った。
韓国も中国も反日さえやめてくれれば。。かならずなかよくやっていけるのに。
ちなみに韓国や中国の人々にとっても、日本の民度は低いということになっていますね。
歴史(笑)という、韓国や中国にとって都合の良いファンタジーを信じないので。
とうとう中国は歴史から天安門事件を抹殺しましたね。