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内田樹氏の1/22付けBLOGOS記事「大学人と職人」へのコメント

内田樹氏の1/22付けBLOGOS記事「大学人と職人」にコメントしました。


学術会議の委員は、行政に諮問することを職務とする公的組織の人間であると同時に、専門領域を研究する職人的人間という二面性があるのですが、これをごっちゃにすると話がややこしくなります。

官邸が任命を拒否するのは、前者と考えてのことで、現に公費が支出されているのだから、官邸としては公的組織として扱うのも当然のことでしょう。それに対して、学者は職人だから組織人として扱われるべきでないというのであれば、【行政からは独立した組織】として、【行政の一部を構成する諮問機関としての学術会議】とは別建てで運営しなくてはいけません。

今回の問題は結局のところ、官邸と学術会議の間で、学術会議の位置づけの認識に相違があった、ということでしょう。この違いはお互いすり合わせて一致させておく必要があるのですが、税金の支出を続ける限り、行政組織の一部としての位置づけしかできないはずです。

いずれにせよ、認識の統一がなくては、この先のスムーズな運営は期待できず、学術会議をいったん廃止して別組織を立ち上げる以外の道がなくなってしまいます。


返信がついております。

Toshimi Minoura

今から45年ほど前の話ですが、当時、AIの分野では世界のトップとみなされていた教授がいました。この教授の持論は、「政府が行う最良の研究支援政策は、優秀な研究者にお金だけ出して、やりたいことをさせる」というものでした。

この教授のもとに10人ぐらいの研究者がいました。そして、研究所には、当時としては珍しい中型の計算機がありました。そして、この教授は、この計算機を、学生をふくむ外部の人達にも開放していました。

この研究所の成果は、AIの分野におけるものより、研究者が論文を書いたりするときに使うために作り出したソフトウエアの方が多いです。これらのソフトウエアの技術には次の様なものがあります。

当時のエデイターは、タイプライタ―の様に入力し、編集は何行目のどの文字列をどう変えるか指定するものでしたが、それを、現在のように、画面を見ながらできるようにしました。

文字を、スプラインカーブという数式で記述できるようなになりました。そこで、文字は画素を使ったものよりきれいになり、文字の大きさは、数式を変える事なく、スケールを変えるだけでできるようになりました。

複雑な数式を表示するエデイターもつくられました。新しい方式の計算機をつくる人もいました。

その他にも、現在のソフトウエアの基礎になっている多くの技術がうみだされました。これは、今から45年程前のソフトウエア技術の黎明期の話です。


山下克也

Toshimi Minoura さん

それをやるのに学術会議の中でしかできないんですか?

異端者でないと革新技術はできないとのことですが、それはロジャーズの普及の理論のことですかね。ロジャーズによれば異端者は付き合いのない人で組織に入らない人のことですよ。


花の ヤン

山下克也 さん

<それをやるのに学術会議の中でしかできないんですか?>

読み取れることは、自由に研究できる環境が成果をあげたということですよ。 つまり、政府が学術会議に介入して学者の自由を脅かすことへの批判だと私は理解しました。


瀬尾 雄三

花の ヤン さん

学術会議は(他国のアカデミアとは異なり)内閣府に属する政府機関なのであって、政府が介入するのはあたり前の話なのですね。

自由に研究できる環境は、政府の機関の中に置くのではなく、個人個人で作ればよいだけの話であるように思うのですが、違うのでしょうか。

特に人文系であれば、さしたる予算が必要にもなりませんから、大英図書館で持論を深めたマルクスのように、国会図書館でも都立中央図書館でも、好きな場所で好きなだけ研究すればよいだけの話だと思います。

アインシュタインだって、特許庁に勤めて仕事をしながら優れた論文をいくつも発表したのですね。まあ、その分、仕事をさぼっていたのかもしれませんけど、それでくびにならないだけの才覚はあったわけだ。

政府がちょっとでも口を出すと、学問の自由が侵されて赫々たる成果が出せないではないかなどというのは、己の能力不足を棚に上げて、責任を他人に転嫁しているだけの話ではないのですか?


Tetsuharu Kawasaki

Toshimi Minoura さん。学術会議毎年予算10億円で200人のメンバーがいるそうですが、ここが最近10年で出した 成果を3つあげてください

あなたの考える重要度の高いものを3つあげてください。

政府に対する提言とかでなく、 「スプラインカーブ」みたいなのでいいですから、 研究成果的な成果物を3つあげてみてください。


花の ヤン

瀬尾 雄三 さん

<学術会議は(他国のアカデミアとは異なり)内閣府に属する政府機関なのであって、政府が介入するのはあたり前の話なのですね。>

この件については私は同意しかねますし、その理由も既に別の機会に述べたはずですよ。

もう一度それを述べれば、学術会議の制度設計が学者の自治を前提としたものであり、それは政府答弁という形で明記されているわけですから、法改正しない限り変更できないのです。

<自由に研究できる環境は、政府の機関の中に置くのではなく、個人個人で作ればよいだけの話であるように思うのですが、違うのでしょうか。>

学術会議は研究機関ではありませんから、筋が違ってますね。

学者が学者の自治で運営していると理解している組織に政府が介入しようとしている点で、学者の自由意志に対する政府の不当な介入とされるわけですよ。

<政府がちょっとでも口を出すと、学問の自由が侵されて赫々たる成果が出せないではないかなどというのは、己の能力不足を棚に上げて、責任を他人に転嫁しているだけの話ではないのですか?>

これも筋が違うと思います。

実績の話ではなく、学者の自由意志を尊重するかどうかの話だと私は理解しています。


瀬尾 雄三

花の ヤン さん

> 学術会議の制度設計が学者の自治を前提としたものであり、それは政府答弁という形で明記されているわけですから、法改正しない限り変更できないのです。

政府答弁は法律とは異なりますから、政府が覆すことも可能です。確かにそれは、立法者の意図という形で、法を解釈する際の一つの根拠となる。しかし、法解釈の根拠としてはるかに強力な判例にしたところで、司法はこれを覆すことができるのですね。

あえてその根拠を探すなら、ローマ法の「事情変更の原則」に求めることもできそうです。つまり、過去の政府答弁の際には、学術会議はあくまで政府の方針に従うと考えられていた。それが、政府の意図に反するような政治活動に組する(具体的には軍事研究に反対する通達など)ようになってしまった。ならば、憲法に定められた人事権を行使すればよい、というわけですね。

政府という公的機関がその発言をころころ変えることは好ましくないのですが、事情が変われば考えも変わるのは当然の話です。これを阻止するのは、法律や憲法という明文化された規定なのですが、今回の問題に関して明記された規定は憲法の公務員に対する人事権のみであり、任命拒否は法的にも正当だということでしょう。今回任命拒否された法律に詳しい方々も、「提訴せず」という形でおのれの判断をお示しになっているのだと思います。まことにごもっともです。


花の ヤン

瀬尾 雄三 さん

<政府答弁は法律とは異なりますから、政府が覆すことも可能です。>

原則的に法解釈の変更はしないものですよ。

もりやりたければ、法改正するべきですし、その方が手続きとして問題がありません。

<あえてその根拠を探すなら、ローマ法の「事情変更の原則」に求めることもできそうです。>

以前のやり取りでは、それは契約の話であって法律に適用できるかは疑問があるということだったのでは。

<これを阻止するのは、法律や憲法という明文化された規定なのですが、今回の問題に関して明記された規定は憲法の公務員に対する人事権のみであり、任命拒否は法的にも正当だということでしょう。>

これは同意しかねますね。

日本学術会議法の法解釈が政府答弁という形で残っている以上、法解釈は議事録として残っており、法解釈の変更はできないと考えるべきであって、残る手段は法改正しかないでしょう。

また、憲法第15条との関係は、日本学術会議法は憲法15条の例外規定と理解すべきです。

といいますか、憲法15条だけでは人事権が内閣総理大臣なのか国会にあるのか明記がない点で、憲法第15条により首相に学術会議人事へ介入できる権限があるとする主張はそもそも根拠が弱いと思います。


Isao Matsumoto

「左派の政府と言うのは存在しない。左派に居場所を認めている政府が存在するだけだ」 というフランス哲学者の警句がありますが、 左派は自分たち以外の思想を否定するので、左派が権力をもった政府はすなわち右派の政府でしかないとみなせるので、論理的に左派の政府は存在しようがない、という意味だと思います。

ガクジュツカイギは自分たちと異なる政治思想の持ち主に対して、学問の自由をこれぽちも認めていないと判断します。 つまり「学問の自由」は(学問における絶対的な独裁権の樹立)という言葉に置き換えなければなりません。

これは戦後日本社会において、公式に導入を試みられた独裁体制のひとつと判断できます。

ついに戦後日本社会が独裁制の肯定に対して前進し始めた歴史的な一里塚だと考えられます。


Isao Matsumoto

このような「学問の自由」にたいして歴史上もっとも深い理解を示し、徹底的な保護の意志を示していた人物は、ご存じ総統閣下ですよ。

彼はこのような意味において学問の自由を完全に保証していました。 ナチス体制下においてアーリア人種理論の研究は完全に自由でした。 彼の時代に人種科学は歴史上最大の発展を為しえたと言えます。


瀬尾 雄三

花の ヤン さん

> 原則的に法解釈の変更はしないものですよ。

> もりやりたければ、法改正するべきですし、その方が手続きとして問題がありません。

法解釈の重要な源として「判例」があるのですが、最高裁の判例も覆ることがある。

最高裁の過去の判例に問題ありと考えるなら、法律を改正するという手もあるし、判例を覆すという手もあるのですね。


他の方のコメントスレッドに返信をつけました。

Kaoru Nishina

内田樹70歳、上野千鶴子72歳、佐藤学70歳。

鼻息荒いようですが、新型コロナに感染して天国に召されないよう祈っております。

で、学問に政治等が介入するなど言語道断という意見に基本的に賛成です。ただし、問題は現状が既に金まみれで介入されまくり歪みまくりなこと。そして、もう一つの重要ポイントは、今の文系の諸学が学問と言える程のものかどうかが甚だ疑わしいこと。

だから先ず、学術会議は客観的検証ができる理系学術会議と文系学術会議に分けることから始めましょうよ。そして各々が権力から離れて自由に学問を深めていただきたい。すると権威主義に陥り、無価値な詭弁を弄しているだけの後者は忘れ去られ、社会から無視され続ける事でしょう。その先に反省が生まれ、活発な議論が促される。多少は有益な文系学術会議が生まれるかもしれませんよ。(あまり期待はしていませんが)


Toshimi Minoura

> 今の文系の諸学が学問と言える程のものかどうかが甚だ疑わしいこと。

仏教学者であるためには、日本語以外に、英語の読み書きができて、中国語、サンスクリプト語、それからもう一つの外国語、例えば、タイ語、チベット語、モンゴル語などからひとつ、が読めなくてはならないにそうです。

キルケゴールの本を少し読んでいたことがありますが、彼に関する重要な書籍が1000冊ほどもあることを知りびっくりしました。自然科学ですと最新の物を30冊、そして特定の分野の論文を100件ぐらい読めば大丈夫です。そこで、文系で博士号をとるのは、理系で博士号を取るよりはるかに長い時間がかかります。

ただし、理系の知識は5年もすれば半分は時代遅れになりますから、一生の間に読むべき書籍の量は同じようです。

米国では、理系の研究者でも、文系の学問が無駄であったという人には、一度もあったことがありません。


望月 聖仁

日本の若い研究者は文学や歴史、哲学に対する造詣が薄い者が多いと読んだことがあります。もう20年位前ですが。

実際、海外の学者の書いた著書には昔の著名な詩人や哲学者の言葉の一節をまえがきやあとがきに著されているのをよく見ますが、日本で出版された日本人の著書にはそれがない。

これが彼我の教養の差なんだなあ、感じたことがあります。 大学で、なぜ教養課程があるのか?今は知りませんが、

自然科学は進んだ学問で文系は劣った学問だなどと、知ったかぶりをするものではない、と私は思いますよ。

そのような今の自民党に見られるような、高慢な態度が、歴史を闇に葬り去り、日本の文化を劣化させ、我々の社会を無知蒙昧にしていくのだと思います。

彼らは保守ではない。保守は先人の知識や教訓、警句を小馬鹿にしたりしない。彼らは保守の皮を被ったご都合主義者だ。自らの保身と権力にしか興味がない。


Kaoru Nishina

「知識の量が多くなると価値が高い学問になる」 これが正しいとすると、人間は早々にAIに敗れ去るでしょうね。

私が問題にしているのは、それが正しいか間違っているか、それに決着がつけられない集団や学会は「発展性が乏しい」ことなのです。今の文科系の学問には、その傾向が極めて強い。だから、年老いて知識量の多い、偉い学者さんの意見が正しいとする権威主義に陥ってしまう。

理科系の学問がより優れているなど主張する気もありません。しかし、理科系の学問、自然科学は立証されたり、否定されたりできるのです。

理科系の学問・科学が発展する以前は、そういう曖昧な文科系の学問しか世界を捉える方法がなかったので、それなりの使命や役割もあったでしょうが、その価値は大きく下がってしまったわけですね。有用性も。

それが今の人文科学の社会的影響力の喪失の原因だと私は考えます。特に、極東の辺境国家日本では、古来舶来の書物(中国、欧米)を読解して翻訳することが学問とされていた。それは遠からず翻訳機で出来てしまうし、語学が堪能な人間が激増して無価値化している。それなのにいまだに、過去の栄光にすがって何も生み出さずに文句ばかり偉そうに垂れている。

人文科学者には頑張っていただき、世の中の役に立っていただきたいものです。

で、人文系の学者が利権に塗れていて、既に学問の自由は失われているという点にはお答えいただけないのですか? これは自明のことで否定できないと思いますが、そんで一回癒着してしまった利権から、学問が自由になるには、どうしたら良いのでしょうか?


Kaoru Nishina

追加ですが、人文系の学問の弱点は、基本的に後方視的な学問なこと。(結果論)また人間社会はとんでもない複雑系なので、再現実証がほぼ不可能なことです。

医学などではレトロの研究は信頼度が低く間違いが多いわけですが、人文系の諸学は、そういうエビデンスレベルの低い知見の集合体。だから、おそらくはデタラメが占める割合は極めて高いと考えられます。その不確実な知見を集めて積み重ね論考すると、とんでもなく間違った結論が導かれてしまうのです。さらに、そこに利権が絡んで、結論ありきで都合よく立論が行われている。内田さんの文章はその典型ですね。

残念ですが、“現代日本の“人文科学は、学問としてはスタートラインにも立てていないと見るのが妥当でしょう。(国際的評価も低いし)それは文芸作品かもしれませんが。そういう謙虚さを持ってほしいですね。そうでないと、今後も学問としての発展も社会的な評価を得ることも困難で、立場や影響力を失っていくことでしょう。

頑張れ、人文科学、人文学者!!


瀬尾 雄三

最近の版では削除されてしまったのですが、Wikipediaの「廣松渉」の項の以下の記述は面白い。

> 「日本には哲学史家や哲学輸入業者は多いが真の哲学者は少ない」云々といわれるとき、「真の哲学者」として念頭におかれるのはこの廣松や、廣松を東大に招いた大森荘蔵であることが多い。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php...

この言葉は全くその通りで、近年の物理学や脳科学やAIを議論する際にカントやフッサールの思索を避けては通れないはずである一方で、カント学者の書物には、カントの言葉を単に紹介しているものが多すぎるのですね。

これは日本に限られたものでもなく、たとえばハイゼンベルクの「部分と全体」でも、カント学者を招いて意見を聞いているにもかかわらず、あまり参考となる話が得られていないさまが描写されております。

ハイゼンベルクの不確定性原理など、まさにカントの「人は物自体を知り得ない」を地で行く話だったのですけどね。で、後のコペンハーゲン解釈ももとはといえばカント的世界観をベースとしているのですが、このあたりは、ブライアン・グリーン著「宇宙を織りなすもの(上)」では以下のように書かれています。

> 一つのアプローチは、歴史的にはハイゼンベルクにさかのぼり、波動関数は量子的宇宙の客観的な特徴を表しているという考えを捨てて、波動関数は宇宙に関するわたしたちの知識を表しているに過ぎないと考える。

「ハイゼンベルク=カント」じゃん。今の物理学者がどの程度カントに精通しているか、はなはだ怪しげですが。

とはいえ、廣松氏や大森氏がどの程度まで物理学に精通していたかといえば、これも甚だ怪しげで、文系の学者の方々には、もう少し頑張っていただきたいものです。

1 thoughts on “内田樹氏の1/22付けBLOGOS記事「大学人と職人」へのコメント

  1. mi.mino

    >>この違いはお互いすり合わせて一致させておく必要があるのですが、税金の支出を続ける限り、行政組織の一部としての位置づけしかできないはずです。
    やってください

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