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印刷された言葉と、感覚の分裂

内藤忍氏の3/1付けアゴラ記事「『上野千鶴子氏の結婚』は批判されるべきことなのか?」へのコメントです。


医者の不養生とか、紺屋の白袴、なんてことは昔から言われており、いまさら驚くこともないのですけどね。このあたりの事情を知るヒントとして、昔(1964)の書物、マクルーハン著「メディア論」に以下の一節があります。

われわれの精神生活の中で,印刷された言葉がもつ細分化の力,分析の力は,われわれに「感覚の分裂」[T.S.エリオットの言葉]をもたらしたのである.この「感覚の分裂」は,セザンヌやボードレール以後の芸術と文学において,嗜好と知識のあらゆる改革のプログラムの中でまず排除すべきものとされてきたものである.

「内部の拡散」を特色とする電気時代では,思考と感情の分裂は,学校や大学における知識の専門分化主義と同様に奇妙なものに思われてきている.しかしこの力こそが,個人的および社会的生活において緊密な家族的きずなをもった部族世界から,文字文化の人間を解き放し,思考と感情を分離し,反応(リアクション)なしに行為(アクション)することを可能にした力だったのである.

ここで対比されているのはオーラルコミュニケーション(会話)です。書籍(印刷された言葉)は、会話と異なって反応が返ってくるわけではない。ここで、感情と分離された学問が可能になるわけですね。

ネットの世界は、書籍と異なって瞬時のフィードバックも可能で、このあたりでいろいろな混乱が生じるというのが実際のところなのでしょう。

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