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リベラルも共産主義も根は同じ

潮匡人氏の4/5付けアゴラ記事「リベラリズムへの不満を語った日米の碩学」へのコメントです。


かつてのマルクス主義者が、今はリベラルを自称する。社会主義からリベラルへ、という人もいる。これ、全体主義的思想から個人主義的思想への転向とみれば不思議な話ですが、理性重視・論理重視で理想を追求するという方法論においては、何ら変わってはいないのですね。

論理重視の立場に、ヴィトゲンシュタインに始まるの論理実証主義がある。その基本的認識は、「世界は成立している事柄の総体」なのですね(論理哲学論考。)これは、かつての第五世代コンピュータの目指した知識データベースみたいな話なのだけど、その知識がどこにあるかといえば、ヒトの脳の中にある。ただし、個人の脳には限られず、コミュニケーションにより、他者と共有された知識として世界は存在するのですね。

でも、これは所詮はヒトの考えた知識であり、何ら絶対的なものではない。ヘーゲルの弁証法だって「正」「反」「合」のステップを認めているわけで、現在の世界認識を「正」とすれば、これに矛盾する「反」の存在を認めているし、次世代の世界認識「合」の存在も認めている。その世界認識がヒトの精神内部に蓄えられている以上、間違いを含むことは大前提なのですね。

これらの基本認識は、「ヒトが知り得る事柄は認識されたもの(知覚のこちら側)であり、ヒトはモノ自体を知り得ない」と唱えたカントに始まり、「客観とは人々に共有された主観である」とした現象学の祖フッサールによって定式化されたのですね。いうなればこんなことはすでに常識です。でも、今日の多くの人は、真実はヒトの外部にある絶対的な存在だと考えがちで、これが多くの悲劇を今日の世界に作り出しております。

じつはこのあたりで、日本の思想はぶっ飛んでおります。「無思想の思想」などとも言われておりますが、外的世界に絶対を認めない。主の観方が主観なら、客(不特定多数)の観方が客観というのが伝統的な立場で、日本の伝統的思想である『禅』は世界の人びとが共感した。日本人は己の思想に自信を持ち、世界をリードする、くらいのことを考えなくてはいけません。


4/1、もう一つコメントを付けておきました。他の方のコメントへの返信のつもりだったのですが、独立したコメントになってしまいました。仕方ありません。このままにしておきましょう。


福田恒存さんはシェークスピア学者で、A Midsummer Night's Dreamを「夏の夜の夢」と訳されております。シェークスピアのこの作品名は、「真夏の夜の夢」と邦訳されており、「midsummer」を辞書で引けば「真夏」と出てくる。それにもかかわらず、あえて「夏の夜の夢」と訳されたのは、英国文化に関する深い造詣をお持ちだったから。

Google翻訳で「midsummer day」を日本語に訳すと「真夏の日」と出てくるのですが、英文の下に小さな字で注意書きが出てくる。これを和訳いたしますと「(イングランド、ウェールズ、アイルランドでは) 6 月 24 日、もともとは夏至と一致しており、一部の国では夏祭りが特徴です。」となる。Google翻訳おそるべしです。

福田恒存さんの解説によりますと、midsummer dayは元々夏至を意味し(夏至は英語で「summer solstice」ですけど、midsummer day も同じ日を指していた)この日は男女の仲を取り持つ妖精たちが活躍する日であると。ふ~む、だから日本でもjune brideなんていうのね。もちろんシェークスピアのこのお話、男女の仲がテーマだし、妖精たちが大活躍するお話でもあったのですね。恒存氏の読みの深さに感服いたしました。

とはいえ、このシェークスピアの小説自体は、ほとんど今日我が国のラノベのレベルとお見受けしました。登場人物の中で最も偉い人であるシーシアス大公にしたところで、黒鉄ヒロシ流に超訳すれば「やりたい、やりたい、早くやりたい」という意味の言葉を最初から最後まで唱えっぱなし。まあ、どこぞの知事もおられますのでナンですが、これがイギリスを代表するブンガクというのは~、と考えてしまいます。

まあ、英国文化というのは、そっち方面に深いということもあるのかもしれないのですが。

1 thoughts on “リベラルも共産主義も根は同じ

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