田原総一朗氏の4/19付けアゴラ記事「トランプ起訴後支持率アップという現象に垣間見えるアメリカが抱える問題の根深さ」へのコメントです。
田原氏の信奉するのは「言語化された論理」「理性で裏打ちされた理想」つまるところ「イデオロギー」ということではないでしょうか。
大澤真幸氏は、その著「不可能性の時代」で、「第三者の審級」つまり、「規範の妥当性を保証する、神的、あるいは父的な超越的他者」を求めてやまないのですが、そのような存在が失われたのが「ポストモダン」の時代なのですね。しかし、そうであるにもかかわらず、多くの人は、論理に裏打ちされた理想を求め続けるのですね。
ここで、「神的、あるいは父的な超越的他者」は、マルクス主義であったり、リベラリズムであったり、日本国憲法(特に第9条)であったり、大東亜共栄圏の思想であったりする。それぞれの思想内容は全然違うのですが、今日はこっち、明日はあっちと乗り換えることを、あまり不思議に思わない。超越的他者に依存するという方法論には、何ら変わりはありませんから。
Wikipediaの「進歩的文化人」のページには、面白いことが書いてある。「(進歩的文化人を批判する)笠井潔は、PC(ポリティカル・コレクトネス)インテリの「いつも正義の側にいたいという自堕落な願望」への反感が若者の右傾化を招いたと批判している」。
たしかに、進歩的文化人という、こっぱずかしいカテゴリーに分類される人々は、言論人であり、論理と言葉が商売道具なのですね。でも、時代は、言語化される以前の思考が重視される方向に動いている。それは、鈴木大拙氏が米国にも広めた『禅』の思想でもあるし、ウッドストックで雨に打たれた若者たちがつかんだものでもある。まあ、親鸞とトランプの両氏を同じと言ったら石が飛んできそうですけど、かのお方のポジショニングは、そうしたところにあると考えるのが正しい捉え方ではないでしょうか。
tahara