長谷川良氏の4/20付けアゴラ記事「ロシアの『報道の自由』は消滅した」へのコメントです。
一方「メディアは第4権力」と呼ばれ、「報道の自由」、「言論の自由」を豪語する日本で「記者クラブ制」が存在し、ジャーナリストの取材活動が制限されている。偽善ではないか。
偽善も何も、日本が「報道の自由」、「言論の自由」において、国際的に極めて低い状態にあることは、世界の常識です。https://eleminist.com/article/2111
発展途上国並などと言ったら、多くの発展途上国に失礼に当たる。報道の自由度世界第71位は、ハイチとキルギスタンの間ですから。
日本が先進国並みに人権を擁護する国家となり、世界のリーダー的地位を占めるにふさわしい国となるためには、メディアに関しても、いくつかの改善が必要でしょう。具体的には、記者クラブの廃止、新聞とテレビのクロスオーナーシップの禁止、テレビの県域免許制の廃止、あるいは、テレビの電波からネットへの移行と放送参入の自由化、等々ですね。
少なくとも「『前』課長『補佐』」などという人物を批判して「良い度胸してるな」などというセリフが普通に帰ってくるようでは、この国の言論の自由度がゼロに限りなく近いことは明白。『前』も『補佐』もつかない、純正の『課長』を批判するようなセリフを口にすることなど、ぜったい無理。普通、そう思いますよねえ、、、
他の方のコメントに返信を付けておきました。
Yuichi Ikeda
自由とか不自由という前に、とにかく質が低いです。いたたまれない位に質が低いのを自覚しているせいか、互いにかばい合い、外敵を排除するという習性が身についたようです。最近アマゾンで東映の警視庁物語というのを見入って当時のレベルの高さに感心していますが、一方で事件記者というシリーズもあり、当時の雰囲気がうかがわれますが、出発点から狂ってると感じます。極論ですが、誰かと麻雀しながら何かネタがないかと野良犬のように探すか、無意味でこけおどしの文章で思わせぶりに見せかけるのが主流のようです。それでも天声人語などレベルが高い時代は昔あったとは思いますが。
瀬尾 雄三
1989年が一つの画期であったと以前コメントしましたけど、朝日新聞が急速に劣化したのもこの年でした。
この年の1月に昭和天皇が崩御され、6月に天安門事件、11月にベルリンの壁が崩壊するのですが、我が国では宇野総理の芸者スキャンダルによる失脚が8月、そして4月には朝日新聞珊瑚記事捏造事件が発生いたします。
東欧革命は、ソ連邦崩壊につながり、進歩的文化人の進歩的なる根拠「歴史的必然性」が怪しくなる。サンゴ記事捏造事件は、もろに朝日新聞記事の信頼性を揺るがすこととなります。まあ、慰安婦記事の捏造を認めるまでには、更に1/4世紀ほどを必要とするのですが、朝日新聞の「終わりの始まり」は1989年であった、と後世の歴史家は記すでしょう。
私にとって印象の深かった事件は、2007年の島京子さんの「書いたものは残る―忘れ得ぬ人々」への朝日の書評に「なんともまっすぐで真理を突いたタイトル」などと書かれたこと。これ、ラテン語格言の「スクリプタ・マネント」なのですね。
このラテン語格言は結構有名なもので、TVアニメ「魔法先生ネギま!」19時間目のタイトルは「Verba volant, scripta manent」でした。その意味は「言葉は飛ぶ、文字は留まる」。この言葉は、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前(上)(下)」にもありましたし、コミュニケーションを扱う書物でしばしば使われる言葉なのですね。書評をしようとする人は、このくらい、知っていなくちゃいけない。朝日の劣化を印象付ける書評ではありました。
それにしても、1989年の朝日新聞は、ほとんど往復びんたを食らっているような年でした。ご愁傷さまです。
maagannbare