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主体としての人や神様の居場所

金子勇氏の8/19付けアゴラ記事「『社会資本主義』への途 ⑨:社会科学からみたLess is Moreの位置」へのコメントです。


おもしろい議論を見落としていました。少々遅くなりましたが、一言だけ述べさせていただきます。その議論とは、次の部分です。

その理由は、「人間と非人間に根本的な違いはない」(同上:270)、……むしろ、「自然に人格」や「川に人格」というならば、自然災害や川の氾濫により毎年たくさんの死者が出る現状を鑑みると、「自然」や「川の流域」を罰したくなるではないか。

「人間と非人間に根本的な違いはない」というのは、今日の自然科学では常識的な考え方です。つまり、人間と言えども、その内部に超自然的な作用があるわけではなく、物理法則に従って動いているだけだ、と考えられているのですね。

物理法則に従って動いているなら、どのような行為にも本人の責任はなく、これを処罰するのは妥当ではない、と思わるかもしれませんが、処罰をすることで社会が円滑に回るなら処罰すればよい、そもそも相手は物理的実体なのだから、とする主張も成り立つのですね。

そういう意味では、自然や川の氾濫も、それなりに処罰されていると言えないこともない。つまり、川が氾濫するなら、堤防を作るなり川の流れを変えるなりして氾濫しないようにしている。犯罪者を罰するのと同じことがおこなわれているわけですね。

で、物理的実体である人なり自然なりの上に、人格を認める。これも不自然なことではないのですね。つまり人は、大理石の塊にビーナスやアポロンの姿を認め、セルロースの薄片に付着したインクの模様に愛すべきキャラクターや遠大な物語を見出しているのですから。そこに神を見出したところで、おかしなことは全然ありません。

2 thoughts on “主体としての人や神様の居場所

  1. MITSUNORI MINOSHIMA

    マルチポストですまん。
    ーーーーーーーーーーーー
    なぜ社会に必要な仕事をしているエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?
    https://www.youtube.com/watch?v=M_DReGkiMfE
    これはいい動画です。

    これほど少子化の原因を明確に述べた動画は見たことがない。

    この動画の中のことばで
    「市場はすべての人の需要を満たすのではなく、お金を持っている人の需要を満たす」
    と意外に見落としがちの部分を大変わかりやすく示してくれた。

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