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神と、悪魔と、人間の自由意思

長谷川良氏の9/10付けアゴラ記事「悪魔の囁き、『旧統一教会を解散せよ』」へのコメントです。


善悪の実在に先立って、自由は存在するか、という問いが立てられるでしょう。これは、カントの第三アンチノミー(二律背反)として知られる難問です。(参考)

カントは、ニュートンののちの時代の人で、この宇宙のすべてのものはニュートン力学に従って運動していると考えられるようになった時代の人です。でも、すべてが物理法則にしたがうのであれば、自由も存在しないことになります。

一方、論理学は自我の実在を前提とします。これは、語用論的前提と呼ばれるもので、自我が実在しないのであれば、あらゆる論理は意味を失う。論理が意味を持つ以上、自我は実在しなくてはいけない。同様に、言語の実在性も前提となります。そして自我の実在は自由の実在と裏腹の関係にあり、自我の存在を認める以上、自由意思の存在も認めざるを得ず、世に善悪のあることもまた認めざるを得ないでしょう。

しかし、物理法則にしたがう万物の実在と自我の実在とでは、その存在する世界が異なります。これを明瞭に指摘したのがフッサールで、自我を捨象して外的世界を記述する「自然学」に対し、外的世界を捨象して自我の内部に構成された世界を記述する「現象学」を唱えたのですね。

これは、カントのアンチノミーに対する解でもあり、現代人に対する啓示でもある。物理的実在と、語用論的前提の解としての自我の実在は、これを議論している枠組みが異なる、というわけです。宗教家の多くは、これを混同している。物理的世界に神がいて悪魔がいて、様々な物理的効果を及ぼしている、と。これは科学の否定なのですが、一方において、科学だけがすべてであるわけでもないことは、現代人はしっかりと覚えておかなくちゃいけません。少なくとも、自由意思を認める以上は、ですね。


返信がついております。

星光

> すべてが物理法則にしたがうのであれば、自由も存在しないことになります。

他人からの強制でなく、己の脳が命ずる判断(仮にその命令が物理法則で決まっているのだとしても)に従うのであれば自由意志だと言ってよろしいのでは?
脳の命ずるところが物理法則に従って決まるとしても、原理的に確定的な予測ができないのだから、自らの判断、つまり自由意思だとしてまったく問題ないように思います。つまり、自由は存在するのです。


瀬尾 雄三

星光さん

> 脳の命ずるところが物理法則に従って決まるとしても、原理的に確定的な予測ができないのだから、自らの判断、つまり自由意思だとしてまったく問題ないように思います。つまり、自由は存在するのです。

アルフレッド・ミーリー著「アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです」という興味深い本が出版されておりますが、同書では自由意思を「レギュラー」、「ミドルクラス」、「プレミアム」の三段階に分けて論じております。

このうち、レギュラーの自由意思は「他から強制されないこと」、プレミアムの自由意思は「魂の存在」を前提としておりますのでわきに置いて、「選択可能性」を要件とするミドルクラスの自由意思が問題となります。

ここで同書は、量子力学的不確定性などによる予測不能を選択可能性とみなすことは妥当でない、としております。これはサイコロを転がして選択しているのと同じ、運の問題だというのですね。

じつは、f-MRIによる脳科学的研究によれば、本人が決断を下したと意識するはるか以前に、脳は選択を完了している。つまり、物理的レベルでは自由意思など存在しない、単なる幻覚に過ぎないわけです。しかし、本人の意識では自由な決定を行っている。ここは、認識された世界と物理的世界という、二つの世界に分けて考えるしかないように、私には思われます。


星光

いつもながら瀬尾さんの博学ぶりには尊敬の念を禁じえませんが、私が言わんとしているのは意識の上で自らの意思で決断したと思うのなら、催眠や暗示によらない限り、それは自由意思による決断だと言ってよいではないかということです。

なんらかの物理法則に従って、意識にのぼる前に脳が判断を下していたとしても、外部から確定的な予測が不可能(つまり不可知)なのだから、自由意志だとしてなんら問題ないということです。白い服と黒い服のどちらを着るか、自分の意思で選んだということと、最終的に脳細胞がサイコロを転がして決めたということにどれだけの違いがあるのかわかりません。自分の脳が決めたことなら(ただし、第三者による脳への強制的な操作によるものでないかぎりにおいて)、自分の自由意思で決めたことなのです。


星光さん

> なんらかの物理法則に従って、意識にのぼる前に脳が判断を下していたとしても、外部から確定的な予測が不可能(つまり不可知)なのだから、自由意志だとしてなんら問題ないということです。白い服と黒い服のどちらを着るか、自分の意思で選んだということと、最終的に脳細胞がサイコロを転がして決めたということにどれだけの違いがあるのかわかりません。

量子力学的不確定性に自由意思を認めようという考えの代表的なものはベンローズの「量子脳」ですが、「ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎を求めて」のあとがきを読む限り、この方も、これは無理筋であるとの考えに至った様子です。

脳細胞がさいころを転がして決めればそこに自由意思があるというなら、最初からさいころを転がして決めても、それが自由意思による判断ということになる。自由意思を持っているのはサイコロである、という結論になってしまいます。

人が他人に自由意思があると考えるのは、他人も自分と同様の思考能力を持つ主体であり、各人各様の世界観、価値観に照らして、様々に思考した結果として決断していると考えるからにほかならず、更にその源をたどれば、自分自身が自由意思の元に判断していると考えているからなのですね。

世界観とは、ある種の情報であり、何らかの媒体に記録され、何らかのメカニズムが情報処理を行っている。自然界の事物に記録され、物理法則によって処理される情報の上の世界と、ヒトの脳に記録され人の脳が処理している情報の上の世界を、同じものであると見なす理由は全然ないのですね。むしろこれらは別個のものと考えるのが普通でしょう。それがつまりは、自然学と現象学という、二つのもののみかたである、というわけです。


星光

> 最初からさいころを転がして決めても、それが自由意思による判断ということになる。

それは違います。己の脳に直結しているサイコロでない限り、内発的な判断とは言えません。脳内のサイコロの出目にはその人固有の束縛条件が存在するので、その条件に従う脳内サイコロの結果だけが自由意志と呼ばれるべきなのです。黒い服と白い服のどちらかを脳内細胞が選ぶ確率は、その人の脳内の記憶や、感覚受容体からの信号 etc.次第で変わるのですから、その人固有の判断、つまり、自由意志による判断ということになるのです。

意識するしないに関わらず、脳内サイコロがもたらすものが自由意志なのだと考えてなんら問題ないんですよ。

現象学などという胡散臭いしろものを持ち出す必要などどこにもありません。

どうです?目からウロコが落ちましたか?


瀬尾 雄三

星光さん

> 黒い服と白い服のどちらかを脳内細胞が選ぶ確率は、その人の脳内の記憶や、感覚受容体からの信号 etc.次第で変わる...

これはつまり物理現象ということですね。でもその物理現象が複雑なので、外部からは選択内容を予想できない。運動方程式で結果が決まるけれど、初期条件の微妙な差に依存するため結果が予測できないサイコロと同じわけです。これを「自由意思」と呼べるかどうかが問題となります。

「現象学」を「胡散臭いしろもの」とお考えのようですが、これは、現代の哲学思想の基本でしょう。もちろん、深く考えることを嫌うプラグマティズムは、世界に対して単一の見かたをしがちなのですが、カント以来は認識されて脳内に構成された「認知世界」と「外界の事物」は別物であり、人の知り得るのは前者であるとすることが常識ともいえる考え方です。もちろん、認知世界の中に外界の事物に対する認知結果も含まれているのですが。

フッサールはこのほかに他者と共有された主観世界である「間主観性」なり「相互主観性」と呼ばれる知的世界を想定し、「客観」と呼ばれるものはこの世界の認識であるといたしました。ここまで考えると世界は非常にクリヤーになります。

これを私なりに言えば、三つの基本的世界がある。「外的世界(世界R)」、「認知世界(世界C)」、「社会的世界(世界S)」があり、人の知り得るものは世界Cのみである。ただし、世界Cの中に、認知された世界Rと世界Sがある。つまりは世界R'と世界S'が世界Cの中にあって、人はそれを世界Rなり世界Sとみなして行動している、ということになります。こう見れば、世界はとってもわかりやすいと思われませんか?


星光

> これを「自由意思」と呼べるかどうかが問題となります。

ですから、自由意志と呼んで問題ないのですよ。
そう考えれば世界は非常にクリアになるでしょう?

ちなみに、「量子脳」というのは、カオス系という意味ではないと思いますよ。まったく同じ初期条件を与えてもどう振る舞うかは不確定(確率が与えられるのみ)ということだと思いますが、いかが?

形而上学的な議論ほど不毛なものはありません。そこからは何も生まれず、自己満足があるのみだと思っております。


瀬尾 雄三

星光さん

> 形而上学的な議論ほど不毛なものはありません。そこからは何も生まれず、自己満足があるのみだと思っております。

「哲学」を意味する「フィロソフィア」は「知を愛する」という意味なのですが、これは確かに「自己満足」と言われてしまうかもしれません。プラグマティズム(実用主義)の観点からは、こんなものは無意味なのですね。

これに似た考え方が、「ファインマン物理学V量子力学」の日本語版p89の先頭と脚注に書かれています。多分、星さんは、このファインマンの主張に賛同されるでしょう。

> 全ての法則がその結果として導かれるような最小限の独立な公理系を見つけるという数学的な問題に特に興味を持っているわけではない†。そこでここでは、完全にして、かつ明らかに矛盾を含むことのないような法則を知れば、それで満足しておくことにする。(そして脚注「† 不要かつ余計な真理などにかまうな!」)

でもこれでは、地上のリンゴも空に浮かぶ月も同じ万有引力が引っ張っているとしたニュートンの学説の価値を損ねてしまいます。別々の力だってかまわないわけですから。そして、天動説に周転円を加えれば、それでも良いことになってしまう。「知を愛する」という態度は、それ自体は自己満足みたいなものかもしれませんが、人類の知性を先に進める原動力になるのではないでしょうか。私としては、「形而上学上等」で行きたいと思います。(形而上学=喧嘩、じゃないですよ)


星光

自由意志からずいぶん話がそれていますが、現代哲学の世界には興味をおぼえません。有用性云々ではなく、知的遊戯として面白みが感じられないのです。演繹的な理論の組み立てなら、数学や物理学のほうが遥かに刺激的でチャレンジングではないかと思いますが、いかがでしょう?

ファインマン物理学はCaltechのサイトでオリジナル版が自由に読めますが、翻訳に問題があるようです。脚注の原文は"Redundant truth doesn’t bother us!"(「冗長な真実は気にならない」)、つまり、量子力学に用いられているいくつかの前提(公理?)が互いに独立かどうかは、それらが正しい限り気にしなくてよいということです。独立な最小限の公理系を構成することに興味はないというのは、講義ノート(講義内容をそのまま本にしたもの)ですから、学習上そこまで気にする必要はないということでしょう。文脈を考えてください。

形而上学的な議論だけでは、地動説も天動説も優劣はつきませんし、月に引力が働いているのかいないのかも見分けられないのでは?

追記:もしかすると、"Redundant truth doesn’t bother us!"という言葉は""Redundancy theory of truth"(真実の冗長理論)を意識したものかも。長々しくなるので説明は省略しますが、ご自分でお調べください。


瀬尾 雄三

たしかに、ファインマン物理学はカルテックの講義の文字起こしだし、授業に際して学生に余計なことを考えるなと要求するのも理にかなっておりますね。そこで、別の話題を提供することといたします。

立花隆氏が利根川進氏にインタビューしてできた書物「精神と物質」は、ノーベル賞の取り方みたいなところがあって少々興ざめなのですが、終りに近い以下のやり取り(シナリオ風に書き改めました)は、脳科学やAIの発達に伴って自然科学者も考えざるを得ない「形而上学的部分」だと思います。そしてこの利根川氏の考え方は、現象学の考え方に合致しております。

> 利根川:われわれの自我というものが、実はDNAのマニフェステーション(自己表現)に過ぎないんだと考えることも出来るわけです
> 立花:そこまで極端に物質に還元してしまうと、自己というものがなくなってしまうんじゃありませんか
> 利根川:いや、あのね、もうひとつ極端なことをいうと、ぼくは唯心論者なんです
> 立花:唯物論のまちがいじゃないですか
> 利根川:いや、唯物論的だけど唯心論なの。つまりね、我々がこの世界をこういうものと認識していますね。これがコップでこれがヒトだと。こういう認識は何かというと、結局、ぼくらのブレイン(脳)の認識原理がそうなっているからそういう認識が成立しているということですよね。もし、我々のブレインと全く異なる認識原理を持つブレインがあったとしたら、それがこの世界をどう認識するか全くわからないですよね。だから、この世がここにかくあるのは、我々のブレインがそれをそういうものとして認識しているからだということになる。同じ人間というスピーシズ(種)に属する固体同士で、同じ認識メカニズムのブレインを持ち、それによって同じコンセプト(概念)を持ち合っているから世界はこういうものだと同意しあっているだけということでしょう。つまり、人間のブレインがあるから世界はここにある。そういう意味で唯心論なんです


星光

利根川氏は唯心論という言葉をよく理解しておられないだけでは?単に認識論の範囲に留まる話ではないかと思われます。はいはい、世界に対する認識は種や個体によって違うかもしれませんね、だから何?で終わる話かと。まあ、唯心論でも同じことですけど、そこから何か意味のある議論が生まれるとは思えません。もちろん、唯心論を否定することはできませんけどね。自分が死ねば世界も存在しなくなると思えば気が楽になるのかな?


瀬尾 雄三

星光さん

> まあ、唯心論でも同じことですけど、そこから何か意味のある議論が生まれるとは思えません。

主観世界と客観世界を分けて論じることの意味は、「科学はなぜ可能か」との問いに対する解を得ようとする努力であって、主観世界の実在性は、デカルトのコギトなり、論理学の語用論的前提として与えられるものの、科学が対象としている自然界の実在性が導き出せない。

主観の外の世界を、知覚の向こう側にある、知覚されたものに対応する外の世界とみなし、これを信頼に足るものとするのが素朴な自然主義だし、そこに他者を認め、他者と共有される主観として主観の外側の世界である客観を認めるのが現象学のアプローチなのですね。

利根川氏の「唯心論」は、モノの実在を否定する本来の意味での唯心論とは異なり、「唯物論だけど唯心論」という形で両者の併存を認めております。これは、現象学の、「主体を棚上げにして外界を見る自然科学的アプローチ」と、「外界を棚上げにして内省を行う純粋心理学的アプローチ」の双方を認める姿勢に対応しているのですね。

複数の世界の存在は、その科学論に支持者の多いポパーも、次のように認めております。(関雅美:ポパーの科学論と社会論)。この世界三に関しては、解釈が確定していないという問題があるのですが。

> ポパーは存在するものを三つの存在論的世界に分類する。第一は、客観的物質的事物の世界(彼はこれを世界1あるいは第一世界と呼ぶ)。第二は、個人の主観的な意識や行動性向の世界(世界2あるいは第二世界)。認識主観によって正しいと信じられているだけであるような、主観的な知識や信念はこの世界に属する。第三は、言語、科学、法律、道徳、哲学、宗教、芸術、生活様式、慣習、様々な制度など、要するに様々な文化体系の世界(世界3あるいは第三世界)。


星光

ご説明を読む限り素朴自然主義でなんら問題ないようですが?現象学とやらが存在する必然性がまったく見当たりません。

>他者と共有される主観として主観の外側の世界である客観を認める

主観は他者と共有できないからこそ主観と呼ばれるのでは?外界の存在が人間の認識を通して主観を生み出しているとすればよいだけの話でしょう。その結果として、共通認識される「こと」や「もの」が生まれているだけの話にすぎません。そうでなければ、未知の他者と遭遇するたびに、「この石はあなたにも見えますか」と確認しなければその石が客観世界のものなのかどうか確認できないことになります。素朴自然主義なら自分以外に一人でも確認してくれれば幻影ではない実在物だと確認できます。

ポパーの分類に関しても、社会学的対象や心理学的対象をそれぞれ異なる「世界」としてカテゴライズすることは可能ですが、所詮、それだけの話にすぎないように思われます。だから何?としか言いようがありません。


瀬尾 雄三

星光さん

> ご説明を読む限り素朴自然主義でなんら問題ないようですが?現象学とやらが存在する必然性がまったく見当たりません。

今日そのように考えておられる方が多いことは認めます。でもこれ、量子力学の「観測問題」で少々問題となります。いわゆる「シュレディンガーの猫」ですね。この解釈として、「波動関数の重なり合い」というコペンハーゲン解釈と「複数の世界に分裂する」という多世界解釈が主流です。それぞれのわかりやすい解説を引用しておきます。いずれも、素朴な自然主義「ではなく」カント的ないし現象学的世界観をサポートしているように思われるのは、私だけではないと思います。

ブライアン・グリーン著「宇宙を織りなすもの(上)」では、コペンハーゲン解釈を次のように説明します。

> 一つのアプローチは、歴史的にはハイゼンベルクにさかのぼり、波動関数は量子的宇宙の客観的な特徴を表しているという考えを捨てて、波動関数は宇宙に関するわたしたちの知識を表しているに過ぎないと考える。この立場によれば、測定を行うそのときまで、私たちは電子がどこにあるかを知らない。そして、電子の位置を知らないという事実が、さまざまな場所に存在する可能性として電子を記述する波動関数に表現されている。しかし、電子の位置を測定したとたん、電子の位置に関するわたしたちの知識は突如として変化する。

石井茂著「ハイゼンベルクの顕微鏡」では、多世界解釈の代表例を次のように説明します。

> これは要するに、測定のたびに「観測者」が新しく発生し、その自我が無限に連鎖していくということである。エヴェレットは、一人以上の観測者がいる場合には標準的な解釈は適切ではない、と考えた。......現在ではいくつも流派があるようだが、大ざっぱには、可能性のある世界の中の一つが、自分の測定に対応して存在している(そして自分もその世界にいる)ということである。


星光

いわゆる観測問題を通じて、観測していない間は局所的な実在という概念が成立しなくなると言われているのは確かです。しかしながら、観測された物理量に関しては実在しているとして問題ないのですから、素朴自然主義的に実在を認めることに問題はありません。あくまでも、観測するまでは状態が本質的に定まらないという意味で実在しないと言えるだけの話です。


瀬尾 雄三

星光さん

> 観測された物理量に関しては実在しているとして問題ないのですから、素朴自然主義的に実在を認めることに問題はありません。あくまでも、観測するまでは状態が本質的に定まらないという意味で実在しないと言えるだけの話です。

これはつまり、論理実証主義という考え方ですね。たとえば、論理実証主義の祖、ヴィトゲンシュタインが「論理哲学論考」の冒頭で「1 世界は成立している事柄の総体である。」とやってくれるような。

この考え方はこの考え方で正しい。すべてがこの世界で完結しているわけです。でもこれって、昔の第五世代コンピュータのような、知識データベースを持って、これに述語論理を適応して様々な結論を導くといったアプローチなのですね。

これはこれで正しいし役にも立つ。でも、知的活動の本当の価値は、 新しい知識を獲得する点にある。今日注目されている(ディープ・ラーニングに代表される)AI技術は、こちらを狙ったところに過去のAIとの違いがあったのですね。

これは、言語的、論理的な「理性」よりも、言語化以前の世界を扱う「悟性」を扱うカントの哲学や禅に通じる考え方で、新しいものを生み出すためには、こちらの知性も大いに働かせなくちゃいけない。ここがポイントです。

1 thoughts on “神と、悪魔と、人間の自由意思

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