八幡和郎氏の3/26付けアゴラ記事「大谷選手の記者会見のとりあえずの感想:球団の手のひら返しの可能性も」へのコメントです。
まあ、推定無罪という言葉もある。証拠もない状態で他人を黒と決めつけるのは控えたいものです。また、そうしたいと思う心の裏側に、妬み嫉みがないか、ちょっと考えてみるのもよい。なにぶん、一般大衆が求めるものは、上を極めたものの転落なのですから、そんな下種の心情に付き合っていてはいけません。
また、超一流の人間に「常識」というものをあてはめるのも少々問題で、所詮は人間のやること、人体という限られた資源の中で戦っていくしかないのですね。「学者馬鹿」とか「役者馬鹿」という言葉もある。一流を極めた人間は、えてして、常識的な部分に欠落があったりするものです。
こういう現象は、最近の脳科学でも究明されており、ナンシー・C・アンドリアセン氏は著書「天才の脳科学」の中で、次のように語られています。
第2章では創造的な人々に生じやすい性格的な特徴をいろいろと挙げた。そこでは新たな経験への開放性、あいまいさを受け入れる傾向、人生や世界に対して比較的先入観なしに接することができることなどを挙げておいた。
このような融通性の結果として、ものごとを新鮮に新しい視点から感じ取ることができ、それが創造性の基礎として重要なのだ。しかし同時にまた彼らの内的世界は複雑、あいまいであり、黒白のはっきりしない灰色が多くなる。疑問は多いが、明快な答えは少ない。……創造性の高い人は、他人の目からは変わっていたり奇妙だったりすることがあるだろう。あまり開けたままで生きているというのは、崖っぷちに生きているようなものだ。時には崖から墜落し……鬱病や躁病、あるいは統合失調症になるかもしれない。…….
また私たちは、創造的な思考がおそらく危険性のある精神過程により、つまり無意識のうちに脳内で連想が自由に飛び交うことにより起きるだろう――組織化される前には思考が一時的にばらばらに分断されなければならないだろうということを見てきた。そのような過程は躁病、鬱病、統合失調症などの精神病のさいに起きる過程と非常によく似ている。
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真柄 剛丞
私たちの世代では長嶋茂雄の伝説を思い出します。
伝説曰く、チョーさんは巨人入団契約金の取扱いを取巻きにまかせそのままにしていた(忘れていた)。その後、何かの際にまとまったお金が必要となった。そういえば契約金はどうなったのかと考えたら取巻きに預けていたと思い出して返してもらった。。。。
この話、どこまでホントだかわかりませんが、天才とはしばしばこういうものだという具体例です。
瀬尾 雄三
ジョブズの以下の言葉も似たような話ですね。
> クレージーな人たちに乾杯。はみ出し物、反逆者、厄介者、変わり者。物事が世間と違って見える人。ルールなどわずらわしいだけの人。現状など気にもしない人。彼らを引き合いに出すことは出来る。否定することも出来る。たたえることもけなすことも出来る。
> 出来ないのはおそらくただひとつ―彼らを無視すること。なぜなら彼らは物事を変える人だから。人類を前に進める人だから。彼らをおかしいと評する人もいるけれど、我々はそこに天才の姿を見る。なぜなら、世界を変えられると信じるほどおかしな人こそ、本当に世界を変える人たちなのだから
そして鈴木大拙師も「禅と日本文化」の中で次のように語る。
> 人が「狂気」になったとき、偉大なことが成就されるとしばしば言われる……という意味は、人間普通の意識層では思想や観念が合理的に組織され、道徳的に統制配置されている。それであるから、ここではわれらはいずれも通常の、常套的の、平々凡々の俗人である。すなわちもとより無害の市民で、合法的に行為する集団の一員であるから、その点では賞賛に値するのである。しかし、かかる魂には創造の性はなく、踏みなれた径を外そうという衝動もない。……
> 偉大な魂の場合はまったくこれと異なっている。期待されてはいない。気狂いである。会いたいと思ったところに彼を止めておかれぬ。いつもなにか自分より大きいものを追い求めている。このなにか大きいものは、彼が真実自分に真摯でかつ真面目な場合、さらに高い意識の層に彼を押しあげて、さらに広い展望によって事物を眺めさせるようにする。かく自分が真にいる場所、いることができまたおらねばならぬ場所を知れば、彼はいまや自分に憑(つ)いている幻を成就し実現するため、「気狂い」になる。あらゆる偉大な芸術はこういう風にして製出された
そういう人たちを、米国では、結構大事にしていると思いますけどね。かつて堀江謙一氏が太平洋の単独ヨット横断に成功した時、旅券法違反という日本外務省に対して、サンフランシスコの人たちは英雄として迎えた。そういう文化的背景も考えておいた方が良いと思います。
7億