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実は宗教性に富んでいる日本人

與那覇潤氏の9/17付けアゴラ記事「宗教を持たないと、『歴史』を語れない時代が(再び)来るのか?」へのコメントです。


「宗教」と一言で言っても、人知を超えた大いなる存在を意識することと、教団の支配を受け入れることは別物です。後者は、魔女裁判など、数々の愚行を繰り返してまいりました。それは、武士のひずんだ誇りの発揮と似たようなものであると、新渡戸氏は彼の著「武士道」の中で述べます。

不正常なる一例をとって武士道を非難することの明白に不公平なることは、キリストの真の教訓をば宗教的熱狂および妄信の果実たる宗教裁判および偽善から判断するに異ならない。しかしながら凝り固まりの宗教狂にも、酔漢の狂態に比すれば何ものか人を動かす高貴さのあるごとく、名誉に関する武士の極端なる敏感性の中に、純粋なる徳の潜在を認めえないであろうか。

で、日本人に信心がないかといえばそんなことはなく、これが一般化したのは鎌倉時代の武士がリードする形で行われたのですね。それ以前は、京都五山の学僧が閉じた世界の中で学問を深めていた。そこから一歩抜け出したのは、法然、親鸞らの浄土宗、真宗の祖であり、そこから禅の思想が発展したのですね。これらは、一部のエリートだけではなく、武士から、さらには一般庶民へと広がってまいりました。

日本の宗教の特異性、特に「禅」のそれは、鈴木大拙師の「日本的霊性」などをお読みいただくとご理解いただけるのではないかと思いますけど、理屈ではなく、生そのものを追求するという立場で、理性からそれ以前の精神活動を重視したカントや、その流れをくむニーチェ、現象学者たちの思想と軌を一にしております。彼らは神を殺したと評されますが、それは、教団的神であり、禅の言う霊性までを否定したものではないのですね。

このあたり、コメントのスペースでは述べること困難ですが、一つの例をご紹介しておきましょう。カントは外的実在である「オブジェクト(客観)」と人による認識である「サブジェクト(主観)」を入れ替え、現象学者は「人々に共有された主観」として客観を再定義しております。でも、主の見方を主観とし、客の見方を客観とするアジア的見方は、最初から現象学の至った地平にあるのですね。


親鸞が流配の地で見出した「大地」は、理屈や論理で把握される対象ではなく、おのれの身体が思考以前に感じ取ったものなのですが、それはカントの言う悟性に対応するものだし、今日の脳科学が重視する意識にのぼる以前の無意識的認識に相当します。そして、ディープラーニングに代表される今日のAIが対象としているものも論理ではなく、論理以前の認識なのですね。この切り替えにより人工知能研究が急速に発展したのは、よく知られた通りです。

禅のもとになったインドの思想や中国古来の思想は、禅と共に西欧に渡り、多くの識者に影響を与えております。その一つはヒッピームーブメントであり、西海岸を中心に発展した情報技術だったのですね。パーシグの「禅とオートバイ修理技術(Zen and the Art of Motercycle Maintenance)」は、後半を入れ替えて多数のコンピュータ関連技術書の表題となっております。

そういえば、C++のバイブル的書物でありましたC++ ARM(注解C++リファレンスマニュアル )は、構成要素と属性と捜査手続きを持つ「オブジェクト」の集まりとしてプログラムを定義しているのですが、そのオブジェクトの定義は「メモリー領域のことである」と言い切っております。これ、デカルトの存在定義と同じですね。つまり、外的事物を「拡がり(エクステンション)」としての実在としており、このほかに、人が認識することにより人の精神内部に構成される「属性」としての実在(色や温度など)とを区別しております。

あるいは、このオブジェクト定義は、インド思想において、壺をパーツの集まりとして、色などの属性として、水を注ぐなどの動作として定義するのと同じやり方でもあります。

こういう姿を見れば、今日の情報技術の成立には、西洋的な思考だけでなく、東洋的なものの考え方が深く関与してきたと推察されるのですね。それを本場の一つである日本がものにできていない。これは大いに残念なことだ、と思うわけです。

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