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検事総長談話問題は司法問題か

郷原信郎氏の10/17付けアゴラ記事「『畝本検事総長談話』大炎上の背景にある検察の全能感と法相指揮権問題」へのコメントです。(「捏造」は「ねつ造」と書くようにします)


捜査機関のねつ造を、従来の刑事訴訟による事実認定の枠組みを超えた強引な認定で無罪の結論を導いたが、それは、検察にとって「法と証拠」に基づく認定としては到底受け入れられるものではなかった。

『問題は、検察にあったのではなく、司法にあった』ということですね。「捜査機関のねつ造」は、それ自体が捜査機関の正当な業務を逸脱した犯罪行為なのですが、裁判官が明確な証拠もなしに「ねつ造」と断定することは、別の意味での冤罪を作り出しているともいえる。

ここは、『疑わしきは罰せず』の原則に立ち返り、「ねつ造ではないかとの疑義を否定しえない」程度の認定により無罪とすればよかったように思います。

そうであるにもかかわらず、裁判官がこのような認定したのはなぜか、という点がむしろ興味深いところですが、一つの可能性として、裁判官にも「正義の味方として脚光を浴びたい」という欲求があったのではないか、などという可能性もないとは言い切れないように、私には思われます。

検察官も人間だけど、裁判官も人間であり、さまざまな俗世間のしがらみといいますか、人情といいますか、そうしたものにとらわれてしまう。そういうことではないかな? 司法判断をAIに移行すれば、このようなしがらみを断ち切れそうな気もするのですが、よくできたAIとなりますと、このあたりも再現してしまいそうで、なかなか難しいものがありそうです。

1 thoughts on “検事総長談話問題は司法問題か

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