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神武東征と記紀と倭人伝の整合

金澤正由樹氏の10/22付けアゴラ記事「古代史サイエンス③:神武東征と日本建国神話は事実なのか?」へのコメントです。


このように、神武東征の寄港地だったほぼすべての場所では、古墳時代の開始とほぼ同時に、大和朝廷の象徴である大規模古墳が建造されているのです。これだけ一致しているなら、どう考えても偶然とは言えないでしょう。

この記述に関して、二つの点に配慮しなくてはいけません。まず第一に、記紀の成立は8世紀初頭で、これらの記述はその時点での認識に基づいたものであるということです。つまり、大規模前方後円墳のある土地を、神武東征の寄港地として記述した可能性もあるのですね。

第二には、これらの巨大前方後円墳の築造された時代は、3世紀中葉から4世紀後半であったということ。この時代は、魏志倭人伝によれば卑弥呼政権の末期以降に相当します。また、これらの巨大古墳の立地が、(邪馬台国畿内説による)半島から邪馬台国に至るルートに、ほぼ一致しております。

一方、記紀の記述と天皇陵の古さに係る考古学的研究を参照すれば、3世紀末から4世紀初頭という時代は崇神天皇の時代を含み、記紀の記述する箸墓古墳建造を嚆矢として、これら巨大古墳が建造されたと考えることもできます。

つまりは、神武東征を前提とせずとも、これら巨大古墳がこの時代、この場所に築造された説明はつくのですね。神武天皇から欠史八代に関する記紀の記述に関しては、大和の支配を正当化するなどの、また別の理由があったのではないかと思います。

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