コンテンツへスキップ

昔鎌倉に鎮座した、地蔵と観音

本日は、鎌倉にかつて鎮座したのですが今は無き、お地蔵さまと観音様について、備忘録代わりに記しておきます。


横大路の廃寺たち

下に示したのは寛政・享和年間(西暦1789~1804年)に版元石渡弥惣右衛門より刊行された「鎌倉勝概図」の、鶴岡八幡宮西側の部分ですが、ここにはいくつかの、今は無き寺院が描かれております。

中央下部にあります華光院、松源寺、鉄観音は、いずれも現在は廃寺となっております。華光院跡は長らく空き地でしたが、現在は日蓮正宗護国寺となっております。松源寺跡は、東亜映画の川喜多長政氏が買い入れて自宅としたのち、現在は鎌倉市に寄贈されて川喜多映画記念館となっております。鉄観音堂跡は、現在は民家となっております。これらの廃寺の南側を横(東西)に通る道は横大路と呼ばれております。

松源寺と華光院及び鉄観音は、江戸時代の神仏混交の時代には、ともに八幡宮の配下にありましたが、神仏分離令によりいずれも廃寺となりました。松源寺は日金地蔵が祀られておりましたが、このお地蔵さまは現在、横須賀の東漸寺に祀られております。

鉄の井と鉄観音堂

一番右下、「鉄(くろがね)の井」は、鉄製の観音像頭部が掘り出されたことからその名がついたとされております。その観音頭部は、道路を隔てて向かい合う「鉄観音」と示された堂屋に祭られておりました。水戸光圀が鎌倉を訪問した際の記録「新編鎌倉志」(1685)によれば、「鉄の井の西向に鉄像観音大なる首ばかり小堂に安ず。胴は崩て堂内にあり」とあり、当初は首の下に胴体を、おそらくは粘土のようなもので作って、その上に頭部を置いたものと思われます。その首から下が崩れてしまい、水戸光圀が見たときは胴の部分は脇に置いてあった、ということでしょう。

鉄観音堂は、八幡宮の管轄下にあり、明治初めの神仏分離令に基づく廃仏毀釈により取り壊すこととなってしまいました。現在は人形町の大観音時に祀られております。

新清水寺

この鉄観音は、元は新清水寺(しんせいすいじ)の本尊とされております。Tappee Xiaorong氏のブログ「風光る:鎌倉郡三十三所 第1番 新清水寺 / 鉄観音堂(2021年 05月 08日)」によりますと、新清水寺の由来は次のように説明されております。

新清水寺は、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に、正嘉2年正月17日(1258年2月21日)に秋田城介(安達)泰盛の屋敷からの失火で、寿福寺などが焼け、余炎で新清水寺も焼失したことが書かれている。鎌倉時代の文献に新清水寺のことが書かれているのは、これだけである。
鎌倉時代に新清水寺があった場所については明確ではないが、『扇ケ谷村絵図』天保3年(1832)(元図は明和元年(1764))に、浄光明寺の向かいに「新清水寺谷」と書かれているので、現在の扇ガ谷2丁目15、16番付近に新清水寺があったと思われる。

GoogleMapから切り出した新清水寺谷付近の鳥観図を下に示します。中央部から多少左上、浄光明寺の向かい側が新清水寺谷とかつては呼ばれており、ここに新清水寺があったものと考えるのが妥当と思われます。この場所は、現在は広い墓地となっており、浄光明寺さんが管理されております。

鉄観音の変遷

鉄観音は、新清水寺の本尊だったのですが、甘縄の大火の際に地中に埋まったとされております。そして、鉄の井の底から掘り出されたというのが、公式の説明になっております。しかしこのようなことが果たして起こり得るかとなりますと、はなはだ疑わしい。鉄の井がそう呼ばれるのは、鉄観音堂の前にある井戸だったからではないか。井戸の地中から掘り出された云々は、観音様の御利益を説明するためのフェイク(盛)だったのではないか、との疑いが濃厚なのですね。

ではこの鉄観音の首は何処から来たかというのが謎なのですが、地元に伝わる話では、この首は近くを流れる川の河原から掘り出されたとの説が唱えられております。この川と言いますのは、上の地図に水色の線で示しました扇川なのですね。鉄の井から勝の橋に至る道路を横大路と呼び、この北側には鉄観音堂に続いて松源寺、岩屋堂と続いておりました。勝の橋は「e- ざ鎌倉・ITタウン」の「勝ノ橋」によりますと、次のようないわれを持っております。

寿福寺の北隣にある英勝寺の土地は、江戸城を築いた太田道灌の屋敷跡である。この道灌の曾孫太 田康資の娘に、後に徳川家康の側室となった「勝の局」がいた。この勝の局は家康の子息頼房(後の水戸藩の開祖)の義母となる。その後、英勝院禅尼と称して 太田道灌縁の地に寺を開基す。さらに水戸家頼房の娘小良姫を開山として迎えて英勝寺を創設する。その後の住持は代々水戸家より迎えたので、水戸家の尼寺と 言われた。この勝の局が寿福寺前の小川に橋を架けた事から、この橋を勝の橋と称した。

勝の橋は、かつては横大路ではなく、横須賀線線路の先でこれと直角に交差する今小路にかけられておりました。この下を流れる扇川(地図に水色で表示)は、ずっと北側の海蔵寺の前から、英勝寺境内を通り、勝の橋で今小路を横切り、横大路の南側を少しだけ並走した後南に流れを変え、二の鳥井の南で若宮大路を横切って滑川に合流しておりました。勝の橋の架け替えは、横須賀線の建造に伴い、英勝寺の敷地の一部を切り欠いて道路と鉄路とし、扇川をその東側に掘り変えたために生じております。

甘縄の大火

吾妻鏡の1258年(正嘉2年)1月17日の条によりますと、 甘縄の大火は次の推移をたどりました。

丑の刻秋田城の介泰盛の甘縄の宅失火す。南風頻りに扇き、薬師堂の後山を越え寿福寺に到り、惣門・仏殿・庫裏・方丈已下郭内一宇も残らず。余炎新清水寺窟堂並びにその辺の民屋・若宮宝蔵・同別当坊等焼失す。  

ここで甘縄と言いますのは、現在も由比ガ浜通の北側にあります甘縄神社のあたりでして、ここで発生した火災が佐助を超えて扇ガ谷の寿福寺まで至りこれを完全に焼失させます。そして、新清水寺、岩屋堂を経て八幡宮の宝蔵別当坊などまで焼き尽くしております。寿福寺の隣に英勝寺がありますが、こちらは江戸時代の創建ですから、大火の時点では存在しておりません。おそらくは、川が流れていただけです。

ここで、新清水寺に火の手が迫る中、本堂で起こったことは、すごいシーンだったのではないでしょうか。つまり、本尊の鉄観音が首だけであったはずはなく、胴体がついていたはずなのですね。それがのちに見出された時は首だけになっている。これは、誰かがご本尊の首を切り落とした、ということでしょう。

この状況を再現いたしますと、火の手が迫る中、本尊をこのまま火中に残すわけにもいかない。かといって、巨大な鉄観音を動かすこともできない。そこで和尚、若い衆にご本尊の首を切り落とすように命じ、自らは一心不乱に経を唱える、そんなシーンがよみがえってまいります。

ご本尊の首の切り落としを命じられた小僧、御本尊にはしごをかけて斧を手にこれに上り、御本尊の肩に片足を載せて首の切り落としに取り掛かる。鉄観音、中は中空ですから、斧を振り下ろすたびにすごい音が響き渡る。本堂の外には火の手が迫り、堂の中にも火の粉がとんでくる。そこをがんがんと斧を振るう小僧と必死に経を唱える坊主。なんとも絵になるシーンではあります。

で、切り落とした首をもっこに入れて棒を渡して火の手を逃れるわけですが、これをのちに鉄の井が掘られることになる鶴岡八幡宮の一角に穴を掘って埋めるということは考えにくい。ここは、扇川の深い所に沈めた、というのがありそうなところです。この時、多少の穴を掘ったかもしれませんが、その深さは鉄観音の首が隠れる程度。火災がおさまれば、再び掘り出して、何らかの形で寺を再興しなくてはいけませんから。

この首を隠した場所がどこかというのは、もう一つの謎ですが、寿福寺側から火の手が迫っておりますので、新清水寺から西に逃げたということはありそうもない。西側に行ければ、後に英勝寺が建立される場所に扇川が流れており、ここに沈めればよいのですが、この南隣が寿福寺で、ここは全ての堂宇を焼き尽くす大火事の真っ最中なのですね。こんなところに向かうのは自殺行為でもあります。

実は、新清水寺谷の奥は峠のように山の低くなった場所があり、ちょっと山を登るだけで、今日の川喜多映画記念館、江戸時代の松源寺の裏に抜けることができます。そしてその目の前で扇川が東向きから南向きに流れの方向を変える。おそらくそこには淵となった部分もあったはず。ここに鉄観音の首を隠した、というのがありそうなところではないかと思います。

その後

鉄観音の言い伝えでは、井戸を掘ったらたまたま鉄観音の首が出てきた、ということですけど、意図的に隠した鉄観音の首が、そのまま忘れ去られるということは考えにくい。一通り火災の後始末が済んだところで、これを再び取り出して、適当な形でお祀りするというのが順当なやり方でしょう。

おそらくは、鶴岡八幡宮の一角に小さなお堂を立て、中に粘土で観音の胴体をつくり、その上にお首を据えた、というのがありそうなところです。

当初は立派な胴体だったのかもしれませんけど、長い年月が経つ間に、粘土の胴体は水を吸って崩れる。仕方がないから、お首を堂内の別の場所に移してお祀りする。まあ、そうしたのが江戸時代にみられた姿ではないかと思います。

1 thoughts on “昔鎌倉に鎮座した、地蔵と観音

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です