浦野文孝氏の8/18付けアゴラ記事「箸墓は300年前後:台与の遣使以前にはさかのぼらない」へのコメントです。
「現段階で、箸墓の年代を表す最もいい試料は周濠下層から出土した小枝」ということですが、箸墓の築造年代と周濠の堆積物の製造年代とは、必ずしも一致しないのですね。
実は、周濠堆積物からは馬具の一つである鐙(あぶみ、足をかけるリング)が布留1式の土器とともに出土しており、我が国における乗馬の開始年代を早めるべきかとの議論がなされております。この問題の答えは確定していないのですが、その投棄時期は早くても西暦300年ごろ、おそらくは4世紀中ごろと考えられております。https://yamataikokunokai.com/tousennsetu/hasihaka.htm
ただし、これらの議論は、我が国における乗馬の習慣がいつ始まったかという問題に対する議論としては有用なのですが、これらを周濠に投棄した時期と箸墓の築造時期が一致している保証がないため、これら出土物の製造年代から箸墓の築造時期を特定することは難しいのですね。
古墳表面は裸の地面が露出しており、ここに木が生えるまで数十年かかる、という点も指摘されておりますし、周濠を後で設けたり、干天が続いて周濠が干上がれば、浚渫することだってあり得る。古墳本体と周濠は、別物と考えておいたほうがよいのではないでしょうか。
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古墳が築造時にどのような形をしていたかにつきましては、楯築遺跡の復元図(下図)が参考になります。
古墳表面は、いわゆる土舗装で、盛り土上面の土を平坦に突き固めています。斜面は葺石で覆い、雨水などによる崩落を防ぎます。盛り土部の周囲に埴輪などの土器を並べて飾り付けることもよく行われております。
古墳の築造直後は、手入れも行われていたでしょうから、表面に草木が生えることもなく、周濠への落ち葉や枯れ枝の堆積も起こりにくいと思われます。このようなことが生じるのは、ある程度の年を経て、訪れる人も少なくなって、手入れもさほど行われなくなってからであって、築造後2~3代を経てからではないかと、私には思われます。もちろん、古墳時代の人がこのあたりのことをどのように考えていたか、今となっては、知る由もないのですが。