全てのものは、私が意識しているから存在するに過ぎない、という考え方があります。(唯心論、ですね)
デカルトは、哲学原理という本の中で「我思う、故に我有り(ego cogito, ergo sum)」と書きました。この言葉だって、これだけみれば、「意識が全て」ってことになります。
しかしぃ ―― ちょっと待ったぁ!
唯心論にせよ、コギトにせよ、言葉で考えられ、言葉で語られているんですよ。そしてその、言葉ってモノは、他人との関係の中で獲得されたはずです。
つまるところ、デカルトの意識も、唯心論者の意識も、他者との関係の中で活動をしているんですね。
そもそも、唯心論者にせよデカルトにせよ、なぜ自説を述べたり、本を書いたりしたんでしょう。それは、自分の考えを、他人に伝え、それを人々が共有する知識としたかったからに違いありません。端的に言ってしまえば、「社会にそれを意識させたいっ!」ってことでしょう。
自然科学的に考えれば、我々の意識は、ニューロン(脳細胞)の中の電気的パルスの伝達のなせる業です。
一方、社会は人間同士のコミュニケーションで成り立っています。
ニューロンを流れる電気パルスと、人と人とのコミュニケーション。たしかに、ずいぶんと違った現象です。
だけど、その機能は、いずれも情報の伝達です。だから、一方が意識をつくるのなら、他方が意識(の、ようなもの)を作っても不思議ではありません。
社会も意識する。だから社会は存在する。デカルト流に言えば、そういうことになるでしょう。
蛇足:デカルトがあの本で本当に言いたかったことは、コギトなんかじゃなくて、「我信ず、故に神有り」ってことだったと、私は密かに思っています。