社会ってのを広辞苑でひくと、『人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団』なんて書いてありますが、『共同生活』とまで言われると違和感を感じます。『関係の総体』なんてのも、なんか凄いしね。
まあ、この議論では、『互いに持続的な関わり合いもつ人々の集団』くらいの定義にしておきましょう。つまり、仲良し3人組も社会の一つというわけです。(最小は2人、ですね)同様に、サークルも社会だし、クラスも社会だし、学校も、職場も、ご近所も社会の一つで、更に大きくなると、町や市や国や人類全体も社会ということになります。
で、関わり合いってのは、話しをしたりモノをやり取りしたり、力を出したりサービスを提供したり、、、まあ、肉体的な接触というのもあるでしょう。そのほとんどは、コミュニケーションの一種か、コミュニケーションを含みます。プレゼントが、単なるモノのやり取りではなくて、メッセージを含むように。
コミュニケーションに際して、メッセージは、何らかの意図の元に発信されます。それが相手に、意図したように受取られるためには、発信者と受信者とが、メッセージを同じように解釈する必要があります。
メッセージの解釈には、単なる言語能力だけではなく、そのメッセージが土台としている常識なり文化なりを、双方が共有している必要があります。
ある社会(最も卑近な例では仲良し3人組)の人々に共有された常識は、その社会の常識であり、社会の意識ということになるんですね。
# というわけで、前回の話に繋がった。
蛇足:文化と常識
『文化』という用語は、その定義が数多くなされていることで有名なんですが、最も簡単な定義に、「文化とは常識のことである」ってのがあります。ここでは、その定義をそのまま受け入れても良いんですが、小人数に共有された知識に付いては、「文化」とは呼び難いため、
「常識」と呼ぶことにします。