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小説の位置付け、なんてことをつらつらと、、、

昨日ご紹介した小説、「実験的」なんて銘打っているんですが、本日は、レイヤ7を読み返した勢いで、そこら辺のことを書きたいと思います。

そもそも、こんなものを書く気になったのは、「コンピュータネットワーク上の社会関係」なんてテーマで、きちんとした学術論文を書いていたのですが、書きにくいんですね。まあ、論文ともなれば、あやふやな話は書けないわけでして、社会という、感覚や気分で動いているものを分析したり、表現しようとすると、なかなか歯痒い。

しかし、フィクションだったらなんだって書ける。発表の機会だって、どこぞの賞に応募して、うまいこと通るという可能性だってなくはない。うまく行ったら、賞金も!!! なんてことを考えて、書いてみたのがレイヤ7でした。

賞はあっさり蹴られたけれど、インターネットという手があるじゃないですか。と、言うわけで、ホームページを作って、そこから読めるようにしたわけです。

最近、丸谷才一が書いた「輝く日の宮」という小説を読んだのですが、これも、ひょっとすると、学問的には立証できない仮説を発表したいというのがこの小説が書かれた動機になっているんじゃないかなあ、なんて感想を持ちました。

こんなやりかたって、ちょっとインチキ感が漂いますよねえ。だけど、社会の研究を小説の形で行うというのは、もう少し、正当なやり方のような気がします。つまり、シミュレーションのような役割を、小説が果たすのではないかと思うのです。そういえば、ポストモダンの例に、ブレードランナーが引用されたりしてますね。バーチャルリアリティーで、アイデアを形にしてみせる、なんて感じかな?

作品の価値が論文に勝る世界は、芸術論の分野です。いくら小説論を並べてみても、作品がつまらなければ意味がない。この場合は、作品が理論を実証するわけです。ま、社会学の場合はそれほどでもないと思いますけどね。

ホームページには、「エミちゃんの事件帳(1) (2) (3)」というミステリーの連作もおいています。これも、一応、情報技術と社会問題との関連を追及するという意味があるのですが、それは、建前。趣味の世界に走っています。ミステリー、読むより書くのが面白い!

表現、という行為は、ある種、精神的な排泄作用とも言われており、作者がすっきりする、なんて効果があるそうです。排泄物など、並べないでくれとしかられそう、、、