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絶対とか、本質的とかいうものについて

総集編(?)の続き、この日記の古いところで扱っていた議論のまとめを続けます。

物理的実体(漫画で言えば、紙やインク)ではなく、その上に表れた物語について考えるとき、哲学とか、宗教といった、この世界に対する私たちの基本認識の問題を避けて通れません。我々は、一体、何者なのだろうか、とか、何が正しくて、何が間違っているのか、とかね。

ニュートン力学の生み出した基本認識もありまして、19世紀の大きな問題になっていました。いくつかの未解決の問題はあったものの、物理学こそが絶対的な真実であると考えられていたし、そこからは、神も存在しないし、魂もない、という結論しか出てこないわけです。じゃあ、一体私たちはどうすれば良いのでしょう、と悩みが始まるわけです。

そこに一つの答えを与えたのがフッサールが提唱した「現象学」で、本質なんか、追求するだけ無駄、と喝破したんですね。じゃあ、何を持って我々の判断基準にすりゃいいのか、といいますと、「生活世界の普遍的構造」だってわけですね。

まあ、この言葉もなかなか難しいんだけど、簡単に言えば、絶対的な真実ではなくて、「普通の生活の中で、誰でもが感じること」をベースにして考えりゃ良いってこと、漫画について語り合えるのは、読者が同じストーリーを見出すから、ってのと似た話。

これって結構大事な話で、漫画について語ろうと思ったら、顕微鏡や分析装置を持ち出して、紙やインクを調べても無駄。それが自然科学の限界ってことで、結局の所、普通の人が漫画を楽しむように、読むしかない。そこに普遍的構造、ってか、誰でも同じストーリを読み取ることができるなら、漫画について語り合える、ってモンです。

そういうわけで、「真実」なんていう絶対的な響きのある言葉の代わりに、「信実」って言葉を使ったら良いんじゃないか、なんてことを提案してみました。皆がそうだと思うことを、私たちの世界観のベースにするしかないと思うわけです。

ところが、我々の大脳が有限のニューロンからなることから、いくつか問題が生じます。

第一の問題は、我々が正しいと信じることが、ほんとに正しいか、定かではないってこと。「信実」って、相対的なもので、いつでも変わってしまう可能性があるんですね。だから、いくら皆が正しいと信じていることであっても、常に疑問を持ち続けなくてはいけません。

第二に、我々の考えがカバーできるのは限られた領域でしかないってこと、世界中の全てがこうなんだ、なんてことは、間違っても言っちゃいけません。地上には多くの社会(互いに関係する人々の集団)がありまして、その全てを一つの決まりで律することなんて、とてもできたモンじゃありません。結局の所、人間社会は自律分散、それぞれに独自の営みを続ける多くの社会が並存する、これしかないはずなんですね。う~ん、長くなっちゃいました。続きはまた、、、