デカルトが哲学原理という本に書いた言葉で、「我思う、故に我有り(ego cogito, ergo sum)」という意味です。
これ、懐疑論といいまして、あらゆるものの存在を疑ったところで、疑っている自分自身の存在だけは、否定することが出来ないだろうというわけです。
この言葉、確かに、ごもっともであり、どうやっても、否定できそうもないですねえ。「コギトに帰れ」なんてスローガンを唱える哲学者もいました。
だけど、バーチャルリアリティの中で、登場人物にこの言葉を語らせることも出来るし、「エゴ・コギト、、、」なんて、つぶやくロボットを作ることも出来ます。人間とロボットは違うだろう、なんていってみたところで、ヒトの思考もニューラルネットの電気的パルスのなせる業、ですからね。
「これは夢じゃないかしらん?」などと、夢の中で疑っているようで、コギトを思考の基盤にするのは、あまり意味のないような気がいたします。
百歩譲って、この言葉が正しい、自己の存在以外は疑わしい、としても、そもそも何ゆえにデカルトはこんな言葉を本に書いたんでしょう。
本に書くということは、自分の考えを他人に伝えようとしたからであり、他者の存在を確信していたからですよねえ。
それに、この呪文、ラテン語で書かれたんですけど、ラテン語はデカルトの発明ではありません。懐疑論が生まれる背景には、過去の思想があり、周囲の人たちとの議論があったはずです。
私たちがものを考えるということ、それは、個人の内部にとどまるものでは決してなく、外界とのやり取り、他者とのコミュニケーションが、大きな役割を果たしています。
電話線を介してのデジタル信号のやり取りも、その働きは、ニューラルネットワークを流れる電気的パルスと、さほど違わないんですねえ。
デカルトのコギトに関しては、こちらのページにまとめを掲載しました。