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ヒトの価値について

人間の脳と同程度の機能を持つ装置「意識する機械」、を人工的に作り出す可能性について、この日記の何日分かを使って議論してきました。その結論は、数百億円の費用は掛かりそうだけど、技術的には可能である、というものです。半導体技術の進歩を考えると、この費用は急速に低下するはずで、あと何年かすると、意識する機械、経済的にも実現可能になるはずです。

レイヤ7というSFをお気に入りの所においておきましたけど、このお話の中心であるレイヤ7は、この意識する機械のことです。で、意識する機械に対する社会のルールは、「作っちゃいかん」。

出来ちゃったときの対処として、秋野は「アボート」と言います。これ、実はしゃれでして、アボートという言葉、人工中絶という意味なんですけど、計算機の処理を異常終了させる処理もアボートと言います。

ガンダムが発進するときの表示板にも、この言葉、ちらりと見えてますね。これは、多分、異常事態が発生して、発進を中止するときに点灯するはず。

人工中絶、禁止している所もありますけど、現在の日本では合法的、ヒトが未成熟の段階では、生物的に生命を持っていても、これを殺すことが出来る。

殺すというと穏やかじゃありませんけど、これ、一概に悪であるとは言えません。精子や卵子も生きてますけど、ほとんどのものは無駄に死んでいってしまいます。受精の瞬間にヒトとしての権利を獲得するともいえないし、細胞分裂がどの程度進めばヒトになるかの線引きも出来ないでしょう。

脳死状態のヒト、精神をつかさどる部分は失われているのですが、生命活動は続けている。で、心臓を取り出すと死んでしまうのですが、こういう行為、臓器移植の際には当然起きてしまうこと。

ということは、ヒトの価値、精神活動の部分にあるのであって、ヒトの命は、その精神活動を生み出す基盤であるから価値を持つ、と考えるのが妥当でしょう。

だから、精神活動を始める前の胎児、その生命を絶つことは、倫理的に間違いであるとは言い切れない。将来精神が生まれてくるはずだった、可能性を絶ってしまう点が問題かもしれないけど。

そうしてみると、ヒトと同様の精神が人工的に作られるというのは、社会的には大きな問題。これ、大きすぎて日記では議論し切れませんので、HPの意識する機械の詳細に書いておきました。

結局の所、命はハードウエア、精神はソフトウエアという対応なんですね。で、本や漫画、アニメやゲームなどと同様、紙やインクという物理的実体と、それを使って表現された物語という二つの価値があるわけでして、こういった作品に対するときの私たちの対応と同じような関係が、他人に対するときの関係のあり方にも表れてくるわけです。

つまり、作品を愛するヒトは、基本的には物語の部分を愛する。で、本の装丁など、パッケージの部分を愛でる人たちもいるのですが、中には物語なんかどうでも良く、本を枕代わりに使う人もいると、まあ、そんな関係が生まれてくるわけです。