自然科学の観点から漫画を語れば、そこにあるものは紙とインクしかありません。インクの形は議論できるでしょうけど、物語の部分は自然科学の対象外です。
でも、漫画を買うヒト達は、紙やインクを買うわけではない。お気に入りの漫画の描かれたコミック本や雑誌を買うのですね。
もちろん、漫画の描かれた雑誌、紙の部分にも価値がありまして、古紙回収、なんてことが行われています。でもその価値、キロいくらの世界、そこに描かれた漫画が評価されて流通する価値に比べたら、全然低いのですね。
そういえば、ウォーホールやリキテンシュタインが漫画の一部を拡大した作品を発表していますね。
これらの作品が何を主張しているのかは、私には良くわかりませんけど、これらの作品に見出されるものは、漫画の細部の線の力強さと、網目が灰色に見えるような、視覚効果を与える仕掛け、つまりは、インクの部分が見えてくる。
漫画の例に当てはめれば、ヒトの心は物語の領域にあって、紙やインクの世界にあるのではない、ということを何日か前に書きました。つまり、物理的な作用を生じるような、タマシイ、といったものは存在せず、ニューラルネットの複雑な運動が、全体として、ヒトの心を生み出している。
ニューラルネットは漫画で言えば紙やインクに相当し、ココロは物語に相当する、というわけですね。
でもこの主張、ココロの価値を否定するものではありません。そもそも漫画にしたところで、そこにあるものが紙とインクだなんてことは、漫画を手にしたヒトなら誰でもわかっていること。そこに超自然的な物語の根源が存在するなんて、誰も思っちゃいない。でも、その物語に人々は価値を認めているんですね。
こういう構造、ココロの他に、イノチも同様、また、神もそうなんですね。かつて人類が試みた神の実在証明、私は「我信じるが故に神あり」を採ります。ヒトがそこに神を見出したとき、神は存在すると主張できるわけですね。漫画の物語も同じ形で存在する、とも言えるわけです。
ところで、信じる、とか物語を見出す、とかいうとき、誰かが勝手に信じてるだけ、というのでは意味ないんですね。
漫画が価値を持つのは、誰が読んでも、同じような物語を見出すから、その物語を、多くのヒトが面白い、読みたい、と思うからなんですね。
この日記での以前からの表現を用いると、社会という意識する装置が、その物語を読み、価値を認めた、というわけです。
だから、神の存在にしたところで、それが存在するのしないのと議論するのは無駄なこと、さまざまな神を信じる社会が存在する、コレは認めるしかないのですね。
それから、自然科学というのも一つの物語、万有引力の法則、法則自体が自然界に存在しているわけじゃない。自然現象を観察すると、人々の心のなかで、そのような法則性が読み取られるということ、つまりは漫画の物語と同じなんですね。
でも、自然科学の方法論、これは強力なものがあるのですね。これは、あらゆる批判を受け入れる、開かれた世界で議論されているから、批判の自由があるなかで幾多の批判に耐えて生き残っている、そんな概念はきわめて信頼性が高い。
一方の宗教的真実は、剣や火あぶりや釈伏などなど、物理的強制力で信じさせてきました。こんな真実、信じろというのが無理というものです。
だから、宗教を背景にした戦争やテロ、これ、自ら信じる宗教の信頼性を損ねる行為、あまりしない方が良いと思うのですね。
ま、コレに似たものとして、はた迷惑な宣伝、なんてのもありますね。コレは逆効果、そんな非倫理的行為の推薦するモノや考え、誰がまともに受け入れるというのでしょうかねえ、、、