相対主義というのは、かつて唯一絶対と考えられていた西欧の文化(常識)に対し、コレとは全く異なる文化もあるということに気付いたことで生まれました。
アマゾンの奥地のような、未開とされた社会にも、文化があったのですね。
で、世界にはさまざまな文化がある、という考えが生まれたのですが、コレは、今となっては、当たり前の話。問題は、これらを統一すべきなのか、並立を認めるか、ということ。
西研さんのいう相対主義は、それぞれの文化を、そのままにしておけ、互いに交流することなく、放っておけという考えとみなして、それじゃあまずいよ、コミュニケーションも必要だよ、と説きます。
私のイメージしている相対主義は、さまざまな文化の存在を認め、違いを認めた上で相互に交流すべき、というものなのですね。したがって、交流に必要な部分で、互いに歩み寄らなくちゃいけない。
最近日本で起こった一つの問題は、会計制度のグローバル化、これも、日本独自のやり方を、世界の標準的なやり方にあわせようという動き、コレには色々と批判もありましたけど、国境を越えてお金が動く、そんな時代には、会計制度を共通化しておかないと、間違いが生じやすい。
一方で、アメリカナイズする方向であった経営のあり方を見直して、日本的経営方式のよさを見直そう、なんて動きも出てきているのですね。
隣の芝生は青く見える、というのでしょうか、実際にやってみると、問題点も良く判る。間違いを正すに躊躇はいらないのですね。
さて、西研さんは哲学者、科学的手法を重視される方です。科学の世界も、相対主義は似合わないのですね。
でも、コミュニケーションを絶つこと、これは、相対主義とは異なります。ナベツネの、「俺は知らん」これは、相手の文化を認めてる、なんてものじゃないですよね。古い企業文化のみを絶対化している。
異質な他者の存在を認める、ということは、コミュニケーションあってこそ、と私は考えています。