西研さんの本(哲学的思考)を、このところ、ず~っと読み続けています。
コギト・エルゴ・スム、我思う故に我あり、に基礎を置く現象学、意識について深く考えるのは、ある意味当然なのですが、その結果、心理学に走る傾向があるのですね。コレ、違和感があります。
メルロー・ポンチという現象学者、みすず書房にいくつも本がありますが、「知覚の現象学」あたりを読むと、ほとんどゲシュタルト心理学の本です。でも、「説明するな。できるのは記述することだけである」なんて書いていながら、人間の知覚現象を、一生懸命説明しているのですね。コレはおかしい。遠くの親戚より知覚の現象学、ぐらいの価値しかないぞ、これは。
まあ、厳密さを目指すのは良いのですけど、せっかく否定した客観、絶対的真理、あまり追求するのもおかしい。ここは次のように考えたらどうでしょうね。
まず、意識がある、これは疑う余地がない。その否定は、それ自体、矛盾です。
次に、意識の中に感覚がある。感覚の向こう側に、意識は外界を感じ取る。この外界、単なる気のせい、と言うのも勝手なのですが、外界に、保存性というか、法則性というか、意識を越えた何かがある。
何しろ、忘れちゃ困る事柄は手帳にメモする。こいつは、意識などより、よほど頼りになるのですね。で、手帳は、探せばたいてい見付かりまして、それを読めば、忘れていたことも思い出す。ま、保存性があるといいましても、時には消えうせることもある。そんなときは、手帳なくした~!!といって大騒ぎするのですね。
さて、外界には他人もいる。で、自分自身も他人と似た存在であると理解している。中には、訳のわからない人もいるけど、多くの他人から何がしかの情報を得ている。で、その情報、怪しげなのも多いけど、信頼に足る情報も多い。ま、そんな情報を吸収した結果として、今の自分の意識があるのですね。
他から吸収した知識の中には、さまざまな学問の領域に属するものもあり、その全ての細部まで理解しているわけではないけど、凡そのところは信じてる。
で、その学問は、自然界、人間界に関わる本質を示すものではなく、それら世界の有様をエレガントに記述する仮説であることも知っている。かつて、ニュートン物理学を絶対的真理と考えてた時代もあったのですが、今では、たいていの学者は、これら学問の成果を仮説とみなしているのですね。
その仮説、大多数の学者に支持されることで、真実であるとみなされます。そのためには、論旨の一貫性や、追試の可能性、反論の可能性など、一定の条件を満たす必要がある。そうでなければ、学者、支持しません。
さて、多数の人が集まって仮説を検証する行為、知的な活動に他なりません。互いにコミュニケートする多数の人間、その総体である学術システムは、ある種の知性体であるとみなすことができます。その知性体の意識、コレが結局のところ、真実とみなされている事柄なのですね。
と、いうわけで、諸学の基礎を築こうと思うなら、個人の意識の中ではなく、互いにコミュニケートする人の集団、そのあり方の中にこそ築かれるべき。哲学は、心理学に向かうのではなく、社会学を志向しなくちゃいけない。
そんな思いがあるものだから、西研さんの「哲学的思考」には、かなりの違和感を感じるのですね。だって、そもそも現象学、共有された主観である「間主観性」を提唱してたのに。上に書いた、社会の意識、間主観性とほとんど同じもの、そこを展開しないなんて、物凄く勿体無い気がするのですね。