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隣は何をする人ぞ、、、哲学から社会学へ

西研さんの「哲学的思考」、まだしつこく読んでいます。この本、最後の方で、現象学的に社会を考えることをテーマにするのですが、やはり私には違和感が、どうしても残るのですね。もっと良い道がありそう。

と、いう訳で、そのアプローチを、ちょっと考えてみましょう。

まず、私の意識がある。その根拠は、我思う故に我あり、で充分でしょう。

次に、意識の中に現れる知覚の原因として、外界の存在を確信しています。外界、私の意識の外に存在し、何らかの保存性、法則性がある、と確信しています。これは、手帳に書いたメモが意識よりアテになることで説明しました。

この外界、客観的存在である、といえるかもしれませんけど、私が捉えているのは知覚のこちら側、意識の中に記述された外界でして、私の意識(主観)の中に客観世界なる概念が存在しているのですね。だから「客観的に言って、コレコレだ」などの言葉は、主観的な意見に過ぎませんねえ、、、

次に、外界の中に他人がいる。その他人、私と似た存在であり、明らかに意識を持っており、私と同様の外界に対する認識を持つように見えます。つまり他人の主観の中にある客観世界の概念、私のそれと似ているのですね。

でも、この客観世界観、全ての人で同じとなる保証、まるでありません。それどころか、しょっちゅう違いが明らかになるのですね。

だから、そこらじゅうで議論が起こるわけでして、議論の結果、客観世界に対する認識、修正されれば良いのですけど、えてして議論は平行線になり、この差、いつまも開いたまま。

そもそも、客観世界が似ているのは、似た環境の中で育ったから。して良いこと、いけないこと、幼児の頃から同じように躾けられ、同じような世界観を持つ人たちの間で、その風習に従って育った。だから、正月のお雑煮のお餅の中に、餡子が入ってたりすると驚く。

で、文化(常識)を異にする人たちとのお付き合いが始まると戸惑うのですが、この両者、コミュニケーションできないわけではない。結局の所同じ、ヒト、という種の生物。やっていることはほとんどが同じ。自然界の法則、ありがたいことに、文化の違いで差が生じることもない。

ところが、文化常識が同じ、との前提で議論を始めると、理解してもらえない。ま、当然の話なのですけどね。だから、異質な他者に語ろうと思えば、特定の文化を前提としない、普遍的な人々に受け入れられるメッセージが必要です。このような普遍的コミュニケーション、学問の世界では、当然のように要求される。実は、ネットの世界でも、こんな普遍性、意識した方が円滑にことが運ぶのですね。

ふ~む、こういう展開にすれば、現象学から社会学への道筋、できるんじゃないかな?で、キーワードは、コミュニケーション、普遍性、文化、常識、なのですね。