「レイヤ7」は、自作のSFなんですけど、これ、「悲しきネット」で議論した社会関係とその根底にある哲学を更に詰めるための、ある種の実験的小説なのですね。(まあ、エンタテイメント性にも配慮しましたが、、、)
で、本日は、その解説を、野暮を承知でやってみましょう。
まず、人が人である所以は、人は考える、ということ、意識を持つということです。
なぜ考えることができるのか、といえば、それは大脳が発達しているから、そこにあるニューロン(脳の神経細胞)の絡み合い(ニューラルネットワーク)が知的活動を生み出しているのですね。
これと同じものは、電子的に再現できる。少なくとも原理的には。なぜ今、これが作られていないのかといえば、複雑すぎるから、お金が掛かりすぎるのですね。人を雇った方が安上がりです。
でも、電子技術は急速に発展しており、コストは急速に低下、いずれは、意識する機械、人工知性体も経済的にできるはずです。そんな時代が、レイヤ7の時代でして、つまりこれ、未来の話なんですね。
人工知性体の人格は、いかに認められるべきか、これは難しい問題です。
このお話の中では、「作ってはいけないことになっている」んですね。人工知性体の扱いに関する社会的合意がまとまるまで、こんな規制も必要でしょう。でも、たまたまできてしまったもの、これはどうすればよいのか、これが次の問題です。
秋野さんの言う「アボート」、これは流産とか中絶とかいう意味なのですが、実は、コンピュータプログラムの強制終了も「アボート」と呼ばれておりまして、これはギャグ。でも、人工知性体の強制終了は中絶と変わりないのも事実です。
さて、私の主張は、人工知性体の人格は、人と同様に尊重されるべき、です。
結局の所、人が価値を認められるのは、その知的活動の部分にあるのであって、たとえ機械といえども、人と同様な知的活動がなされるなら、人格を認められるべきであって、それを否定する合理的理由はありません。
これは自然人の人格にとって、かなり厳しい制限です。つまり、人は人として生まれたから、特殊な立場を手に入れるわけではない。その人の知的活動を通して、はじめて、人は人格を認められる、というわけです。
なお、この主張、馬鹿は消してしまえ、という意味ではありません。人は、知的活動ができるように生まれているのだし、訳のわからないことを言う人も、その人なりの知的活動をしているはずですから、誤解しないでくださいね。
でも、ここまで厳しい見方をすれば、人種差別なんて馬鹿みたいな話になりますね。
さて、知的活動、個人のニューラルネットで閉じた活動ではありません。他人とのコミュニケーションを通して知的活動を行っているのですね。で、密にコミュニケートする集まりを形成する。人工知性体もそうなるはずです。
つまり、人間社会にはいろいろな大きさの社会がありまして、それぞれの社会も、一つの知性体として機能しているわけです。そうであれば、それぞれの社会も、固有の人格を認められるべき、ということになります。
もちろん、犯罪に対しては断固とした処置が必要でしょうけど、それにはそれなりの、手続き、というものが必要なのですね。その手続き、社会的合意を得たものじゃないといけない。
現実の世界は、このあたり、依然曖昧としておりまして、まだまだ社会的に成熟した段階に到達しているとはいえません。人の発達レベルで言えば、国際社会は、善悪の判断がつかない、幼児の知的レベルなんですね。
レイヤ7に書かれた世界、人類が幼児の知的レベルから、大きく成長する、そんな時代を背景としているのでした。
かなり未来の話なのが、ちょっと寂しいが、、、