一昨日の日記に、今の日本、常識が希薄化しているということを書きました。会社や役所の組織など、それぞれの小さな場所での常識、その組織から一歩外に出れば非常識、その非常識が招く、信じられない不祥事、後を絶たないのが今の日本なのですね。
ナベツネのホリエモン評、「そんな奴、わしゃ知らん」は、古い企業内なら常識なのかも知れないけど、それが通用しないのが今の日本なのですね。
かつての日本、多くの人に共有される常識があった。少なくとも、そう考えて大きな間違いはありませんでした。でも今やそんな常識は失われている。
で、一つの問題はコミュニケーションであることを前回御紹介しました。常識を共有していないと、コミュニケーションが成り立たない。これは問題です。でももう一つの大きな問題が、文化が失われる、ということ。
文化の定義、「文化とは常識のことである」なんて過激な定義もあるのですが、「およそ人間が社会の成員として獲得した能力や習性のあの複合的全体」という Tylor の定義あたりが一般的な感覚に近いでしょう。
でもこの定義でも、常識というものに極めて近い概念であることもまた事実です。社会を構成する人々の間で共通認識が失われてしまうと、その社会は一つの文化を持つとはいい難い。世界7文明の一つとまで考えられている日本、その文化が希薄化の危機を迎えている、極端に言えば、そういう状況なのですね。
今の日本、多くの人に共有できる常識を再確認しないといけない。その共通項をベースに日本文化を再構築しないといけない。で、それは何か、ということが問題になるのですが、方向性は明らかなのですね。
これまでの歴史で一貫して流れる社会的変動が都市化。村落的共同体の喪失でして、人々は温かみのある人間関係を失い、匿名的、機械的な人間関係の中で生きざるを得なくなる。「田中さんちの次男坊」が「レジ係」として扱われる。
でもこの流れ、社会が拡大したための必然的流れであって止めようもないし、また、村落というもの、合理的判断よりは長老の独断に従って動く性質もあり、巨大化した社会が一人の人間の思惑で動くことの危険性は、先の大戦でのナチスの暴走からも、広く認識されているのですね。
都市的人間関係は、人々に等しく可能性を与えるという優れた面もありまして、生まれながらにして運命が定められる村落的共同体よりも好ましい社会であるともいえます。少なくとも、いまさら逆行はできないでしょう。
で、このような社会の常識足りえるものは何か、というと、抽象性。つまり、個々の人々の事情に無関係な、客観的判断基準が重要になります。都市化の進展に伴って、法の支配が重視され、官僚制度が整ってきました。
で、最近の変化は、これがもう一段先に進んだ、と見ることができるのですね。つまり、かつての村落的共同体のアナロジーで国家を語れば、世界全体を覆う巨大な都市の中に飲み込まれていく、と例えればよいような状況が進んでいる。国際化、グローバルスタンダード、の時代に向かって進んでいるのですね。
この動きも、実は、止めようがない。今日の世界は一つの社会として活動している。大量の物資、資金、情報が国境を超えて流れ、世界は一つのシステムを形成している。その中で、価値基準も常識も、差異を維持することは困難になりつつあります。
恐らく、世界は普遍文明とも呼ぶべき一つの文化圏に収斂していくであろうと予想する人類学者もいるのですね。それは西欧文明の世界支配になる、なんて見方もあるのですが、これはこれで難しい問題を多々孕んでいます。
一方で、日本文化とは何か、という問題ですけど、基本的には辺境の文化であり、混血の文化である、という特徴があります。日本人のルーツは、大陸の南と北、それに海を渡って漂着した民の混血でして、中国という巨大文明に近かったけど、これに征服されることもなく、独自の文化を築いてきたのですね。
もちろん、目を近代以降に向ければ、本居宣長らの国学が、明治維新以来、太平洋戦争に至るまでの日本文化の柱となっていました。でもこれは、キリスト教を礎とした西欧文化に対抗するための支柱という性格が強く、形は西欧型の社会体制で、ただその柱がヤマトゴコロであったわけですね。
さて、辺境の混血文化の特徴は、寛容性。古来日本に住む人たちは、様々な文化を受け入れ、独自の発展を遂げてきたわけです。この文化、確固たる自己主張をもたず、他との関係の中に自己を位置づけることを重視する文化でこれを否定的に捉える向きもあるのですが、実は、これは得がたい特性でして、いずれ世界を覆うであろう普遍文明、まさにこういう文明でなくてはいけない。
日本人、もっと自信を持っても良いのではないか、私はそう思うのですね。和をもって尊しとなす。聖徳太子のこの言葉、今でも全然古くない。元来、和の国であった日本、これからの世界では、貴重な存在なのですね。
本日の日記、長くなってしまいましたので、この辺で終わりにしますけど、この話、いずれまたもう少し考えてみたいと思います。それは多分、ネットでのコミュニケーションのあり方、とも無関係ではないはずですね。