コンテンツへスキップ

このところ、閑をみてはデリダの「エクリチュールと差異」を読んでいるのですが、「VII フロイトとエクリチュールの舞台」、なんか面白い。

まあ、一人で面白がっていてもいけませんので、ちょっと解説しておきましょう。 ... "マジックメモに関する奇妙な議論" を続けて読む

最近、出張が多く、生活時間が不規則になってしまいました。で、このブログもお休みが多かったのですが、電車に乗っている間は閑、というわけで、いろいろと本を読んでいます。で、最近読み始めたデリダの「エクリチュールと差異」少々面白いので、一部御紹介します。 ... "デカルトのコギト" を続けて読む

哲学少女夕映(ゆえ)の名前の由来ではないかと、私が密かに推測しておりますデカルトの言葉、我思うゆえに我あり、は、現在の哲学では大事な概念です。名付け親は哲学者のおじ様でしょうね。

で、この思う我、ですけど、全てを疑っても、疑う自分の存在を否定することはできない、というきわめて論理的な疑う主体としての我、でして、具体的には自らの意識、ということになります。 ... "ネギま!の哲学、その5。意識はホームページ" を続けて読む

ネギまの哲学、続けます。

この漫画で、一つ面白いシチュエーションが、ちうこと長谷川千雨と、その他の人たちとの認識の違い、です。ねぎ先生他の主役級の登場人物が生きる世界は、魔法使いの世界、まほら学園のローカルな世界であるのに対し、ちうの世界はテレビ的現実世界、なのですね。だから、ちう、世界樹の存在に、なぜレポータが押し寄せない、と不思議に感じているわけです。 ... "ネギま!の哲学、その4。ローカル? それともグローバル?" を続けて読む

ゆえっちの領域に迫るネギま!の哲学、先週に続いて第3弾、です。

先週は、モノには2種類ある、というお話をしました。有体物と無体物。ネギま!の例でいえば、インクが付着した紙の綴じられたモノ、つまり物理的なコミック本としてのネギま!11巻と、そこに描かれた大勢のキャラクタと彼らが織りなすネギま!の物語としてのネギま!11巻です。 ... "ネギま!の哲学、その3。デカルトの神様" を続けて読む