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ポスト・モダンの条件を読んで

最近、リオタールのポスト・モダンの条件を読み返しています。これ、原書の出版は1979年と、大昔なのですが、今日問題になっている文明の衝突、この問題を考える際に、避けて通れない本ではないかと思うのですね。

ポストモダン、という思想的潮流は、少し前に流行ったのですが、世界の混乱を横目でみながら、世界は混乱に向かうのだよ、などと他人事みたいに言う論調が多く、なんとなく嫌な考えだ、という印象を持っておりまして、リオタールのこの本も、ポストモダンのはしり、ということで、個人的には、色眼鏡で見ているようなところがあったのですね。

でもまあ、読み返してみれば、何ということはありません。人類進化の確かな方向があるなどという啓蒙主義に袂を分かって、文化相対主義ともいうべき、パラロジーを指向する、まあ、今にしては、当たり前の主張であったわけです。

1970年代の世界史上最も重要な出来事は、おそらくベトナム戦争であったと思うのですね。この戦争、放置しておけば共産主義がアジアに広がってしまう、というドミノ理論に基づき、米国がベトナムに傀儡政権を樹立、共産主義政権の北ベトナムと戦争に突入したものです。もちろん、その裏には、戦争で利益をあげる米国の産軍複合体の陰謀が渦巻いていた様子なのですが、これは、ハリバートン社の暗躍する現在でも変わらない構図なのですね。

さて、ベトナム戦争は、1975年4月30日サイゴン政府が無条件降伏して幕を閉じました。負けたのはサイゴン政府ですが、これが米国が裏で糸引く、傀儡政権であることは世界に知らない人はおりません。つまり、巨大国家米国が、北ベトナムという、一小国に戦争で負けてしまった、という、信じられない出来事が起こってしまったわけです。

この敗北で米国が失ったものは、実に巨大なものがありまして、日本が経済的に米国を凌駕するに至るのも、実は米国のベトナム戦争敗北が一つの理由であったわけですね。

しかし、もっと深刻であったのは、精神的な打撃でして、米国政府の言う正義に疑惑の目が向けられるようになってしまったのですね。まあこのあたりは、ランボーに代表されるハリウッド映画で、多く紹介されております。米国の人々も、薄々気付いているはずなのですね。

西欧社会の行為、果たして倫理的に正しいのだろうか、という問いは、文化の発達した西欧に未開の野蛮国家を対置していた従来の世界観に対して、実に深刻な疑問を投
げかけたわけです。まあ、日本人からみれば、そもそも前提が間違っている、のですが、、、

少し前のこのブログに、ブッシュの野望はとっくに破綻しているなんて書きましたけど、この言葉には、こういった背景があったわけです。でも、最近のアメリカ人、歴史の教訓を、ころっ、と忘れてしまった様子。同じようなことを再び繰り返しているのですね。

ただ、単純な馬鹿、という言葉は慎みますが)アメリカ人に比べて、ヨーロッパの知性は健全。その一つがリオタールのこのレポートであると思うのですね。

この本が出版されて、ポストモダンが流行る、一方では、多文化並存の構造主義が思想界の常識になる。まあそれは良いのですが、いろんな考えがあるんだね、では社会的な力にはなり難いのですね。アメリカさんの考えも認めましょう、協力はできないけどね、というのが、イラク侵攻に際してのヨーロッパのいくつかの国家の反応だったのですね。

結局のところ、ポストモダンにしろ、構造主義に端を発する文化相対主義にしろ、いろいろな文化があるんだね、という一点に止まっていては、何もできないと思うのですね。で、これを超える道を探しているわけなのですが、もしかすると、社会的な場の論理、これが突破口になるのかも知れない、と考えております。

まあ、この辺につきましては、いずれまた論じたいと思うんですが、人々はいやおうなく、ある場に属して生活をしており、その場を維持し、永続させるためには守らなければいけないことがある、というような原理なのですね。

で、最も広い場が、地球、でして、さしあたり地球を維持し、人々の生活を永続させるためには、守らなければならない道があるわけです。それは、独裁者の追放よりも、何よりも地球環境の維持であり、温暖化の阻止であると思うのですね。

まあ、このあたりに関しては、いずれもう少し、きちんとした形で議論したいと思います。ここでブッシュを馬鹿にしたところで、何一つ進歩しないことだけは確かですから。