本日読みました一冊は、マンガの国ニッポン。東ドイツ出身の社会学者、ジャクリーヌ・ベルント氏の書きました日本におけるまんがを分析した本です。(2017.2.17追記:引用部を除き「マンガ」を「まんが」に改めました。)
1. 同書の成り立ち
この方、東ドイツ出身といいましても、1991年4月以来、日本在住で、立命館と横国の大学助教授を歴任された方でして、日本に対する理解は十分おありの方です。
ただこの方、長い間、共産主義という政治が文化を支配した東ドイツで生まれ育った方でして、旧共産圏のもののみかたがベースにあることは否めませんで、日本の特殊性を論じているのか、共産圏的ものの考え方の特殊性が展開されているのか、少々戸惑うところもあります。
とはいえ、第三者的見方で日本のまんがを分析していただく、というのは得難い機会。それなりに貴重な一冊です。と、いうわけで、内容のご紹介とまいりましょう。
この本は4章仕立てですが、中心となるのは第2章と第3章。第1章は「マンガ現象―序にかえて」なる前振りでして、日本におけるまんがの位置付けについて紹介します。なんと、日本で出版される書籍の1/3はまんが、というわけですね。
2. マンガ―大衆文化の申し子
第2章は、「マンガ―大衆文化の申し子」と題しまして、日本まんがの歴史と社会学的考察が行われます。最初に70年代までのまんがを「大衆文化」という視点から概観した後、「二極分化対立構造」という視点から「大衆文化」を考察いたします。
この部分で少々違和感がありますのは、日本におけるまんがの主流である「少年まんが」の比重が低い一方で、少女まんがやポルノまんがといった、キワモノの扱いに比重が高いところです。著者が女性であることから、少女まんがに関心が傾きがちで、ジェンダーという視点が重視されるのかもしれませんが、社会学という立場からは、この比重の配分は少々ヘンに思います。
3. 少女まんがに対する深い洞察
それにしても、少女まんがのベースにモラトリアムあり、と見抜いた上での、以下の表現はなかなかのものであると思います。
このような「モラトリアム文化」とからみあっているのが、少女マンガには必ずしも話の筋が強調されていないことである。日本人は若いときから少年マンガを通して、それ以降も劇画を通して、行動的なものになじんでいるけれども、少女マンガにはそれを忘れさせてしまう魅力がある。それは数多くの自然描写や超自然的な要素をともなった情緒ゆたかな比喩であり、流れゆく大がかりなモンタージュであり、層をなして重なる絵、ぼやけて見失われてしまいそうな絵の枠である。マンガの外形的な流れと登場人物の内面的な動きとが、風になびく髪とゆれる服のように、溶け合っているのである。なかには行動力にあふれた少女マンガもあるけれども、そこにもやはり静的な思いの場が存在するのである。その思いの場では、紙面が装飾をほどこした静止画によって組み立てられており、浮世離れした世界が演出されているのである。
なるほど、ニッポン少女まんがの特徴を的確に捉えた表現であると思います。また、この描写は、以前本ブログでもご紹介いたしました、村上春樹著「海辺のカフカ」とも重なっておりまして、なるほど「海辺のカフカ」、まんが的であるとは思いましたが、より正確には「少女まんが的」である、というべきところであったと感じた次第です。
海辺のカフカ、少女まんがの原作になりえますし、アニメにしたら面白そうな作品です。どなたかトライしませんでしょうか。なにぶん、コミケに出品されるまんがの数々に、ろくなストーリーがない、などというところまで、ベルント氏には見抜かれてしまっておりますゆえ、しっかりした原作を持ってまいりますと、作品の質は格段に高まるのではないかと思うのですね。
4. 共産主義的観点か
さて、話を元に戻しますと、同書の問題は「二極分化対立構造」との見方にありまして、これは、東独で生まれ育ったが故に精神の奥底に染み付いてしまったものの見方に一因があるのでは、という印象を受ける部分です。
ここで二極分化対立、といいますのは、大衆文化に対して支配層の文化を対立させる考え方でして、搾取する側、される側に二分しなければ気がすまない、共産主義的ものの見方、と私には思えてしまいます。マルクス主義からポストモダンに転じた思想家の典型的なものの見方、でもあるのですね。
日本の文化といいますものは、確かに狩野派の絵画のような、もっぱら支配層にのみ向けられた文化もあるのですが、文化の主流は、貴賎を問わず、社会の幅広い階層に礎を置いております。日本まんがの源流を鳥羽僧正の鳥獣戯画に求める考え方は主流ではあるのですが、法隆寺の天井裏に描かれました落書きをもって日本まんがの嚆矢とする考え方もあるのですね。少なくとも、大工のような、かなり下層の人間にもまんがに類するものは書けた、というわけです。
5. 日本の伝統に根ざすまんが
日本まんがの流れは、絵巻物から浮世絵、赤表紙、黄表紙とつながる絵と文字を合体させた表現の流れでして、確かに王朝絵巻は支配層の占有物であったのでしょうが、浮世絵や黄表紙となりますと庶民が相手。いまのまんが雑誌と、その位置付けはほとんど変わりません。
同書にはありませんが、西欧文化と日本文化との大きな違いは、西欧が石の文化であるのに対し、日本は木の文化である、という視点がありえるでしょう。
西欧文化の礎は一神教であり、永遠かつ絶対的な神に近づくことが目的となる。人の使命は自然の脅威に打ち勝つことであり、永遠の寿命を持つ石材で神殿を建てようといたします。一方の日本文化は自然との調和を目指す文化であり、変化が元々文化に組み込まれている。だから、寺院は木材を持って建てられ、極端なケースとして伊勢神宮の式年遷宮などということが行われるのでしょう。
人生がうつろいゆく自然の流れの中のつかの間の存在に過ぎないのであれば、文化を支配層が占有する意味はありません。支配層にとりましても、自然の流れと一体化した普遍的な人としての喜怒哀楽の中にこそ文化があると考えても、何の不思議もありません。わび、さびも、もののあわれも、財力や権力とは無縁の概念なのですね。
日本の文化の一部に、支配層のはぐくんだ文化があることは否定いたしませんが、万葉の昔から、江戸元禄文化に至るまで、日本文化のメインストリームは庶民を取り込む形で発展してきました。その流れの先に、日本まんがもあった、とみなすべきではなかろうか。私は同書を読んで、著者の主張とは異なる思いを抱いた次第です。
6. 文字情報と図形情報の共存
さて、次の第3章は、「視覚メディアとしてのまんが」と題しまして、文字情報と図形情報がともに含まれるまんがのメディアとしての特殊性が論じられます。しかし、文字と図形の共存は、さほど特筆すべきものとも思われません。古代エジプトの壁画にせよ、今日の絵本にせよ、文字と図形は共存しております。文字も図形も、ともに平面の上に刻まれるものですし、用いられる素材も技術も同じですから、これらの共存はごく自然なことであるわけです。
ひとつの例外はタイプライタであり、その発展形である活字式プリンタです。しかし、今日では、プリンタを含め、計算機出力の表示はドットで行われており、図形も文字も、同じように扱うことができるのですね。すなわち、文字と図形との結びつきは同書の指摘するような、特殊な存在ではなく、もともと自然な存在であり、文字情報のみが扱われていた時代が、少々特殊な時代であった、と私は思う次第です。
最後の第4章は、「総括と展望」と題する短い章で、この本を書くことになったきっかけと、内容に関する補足的説明が語られます。
7. 日本漫画の置かれた社会状況
以上が同書の内容ですが、今日の日本まんがを考察する際、一つ忘れてはならない視点があるように、私は思います。同書にはそれが欠けているため、なんとももどかしい印象を受けたのではないか、と考える次第です。その欠けた視点、といいますのは、まんがを世に出す側の置かれた社会的状況なのですね。
今日の日本まんがの興隆は、少年マガジンと少年サンデーが刊行された1959年3月17日に始まるといっても過言ではないでしょう。これ以前も、貸し本まんがや新聞、雑誌などへのまんがの掲載もあったのですが、その社会的影響は限定的でした。
これらの少年向けまんが週刊誌も、発売当初はさほどの影響力はなかったのですが、1963年の鉄腕アトムのテレビアニメ成功に続き、少年サンデー連載のおそ松くんやお化けのQ太郎などがアニメ化されますと、これらのキャラクター商品が巷にあふれ、版権を有する出版社にも大きな利益をもたらしました。
こうなりますと、まんが雑誌の刊行が相次ぎます。一方で、定評のある書き手が少ないこと、まんがはある程度の技量があれば個人でも容易に描けること、などの理由により、新人作家への門戸が広く開かれることになりました。この状況は今日も続いております。まんが雑誌を出版する各社は新人への門戸を今日でも開いており、既存の作家に対しても、アンケートによる読者の支持がチェックされる状態が続いております。
8. 日本漫画興隆の鍵は競合環境にあり
このようなまんが雑誌のあり方の結果、日本まんがのメインストリームでは、権威が幅を利かすこともなく、停滞することもなく、常に読者の興味の変化にしたがって、最も関心の高い分野にそのテーマは向かいますし、技術も常に研鑚されることとなります。このようなダイナミックなあり方こそ、文化のあるべき姿であり、それがまさに実現したことが、日本まんがの、そして日本アニメの興隆を招いたのであろう、と私は思うのですね。
同時期に凋落いたしました日本映画は、五社協定に象徴されるカルテル体質や、系列館を押さえるなどの、文化のダイナミズムとは無縁の領域に経営努力が向けられた結果、作品は魅力を欠き、視聴者が背を向ける結果となってしまったのではないでしょうか。また、このような硬直化した経営姿勢が、テレビ放送の普及という技術的・社会的変化への適応力を失わせ、せっかくの発展の機会を衰退の要因に転化したのではなかろうか、と私は考えています。
同様な変化が、今日、ネットの普及という形で、放送、出版を始めとする、さまざまな文化領域で生じています。この変化に対して、既存の文化の担い手は、どのように対応していくのでしょうか。
簡単に製作できるというまんがの特質は、今日ウエブ上で交わされるさまざまな情報にも共通するものであり、ひょっとするとウエブが人類の新たな文化の受け皿になるのではないか、という気がいたします。その主力となるものは、私の予想では、まんがかアニメに近いもの。まあ、アニメをもう少し簡単に作れるような環境が整いますと、こういった流れは一気に加速するのではないか、と考えている次第です。
だいぶ本論から脱線してしまいましたので、この辺にしておきたいと思いますが。